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誕生日を迎えました

 68回目の誕生日を迎えました。この日はなんといっても、産んでくれた母に感謝する日です。Facebookや電話で皆さんから「おめでとう」という祝福のメッセージをいただき感謝感激しています。

 長女から「元気に長生きしんさい!」というメッセージが届きました。この言葉、僕の方から言うことはあっても、人から言われることはまだ当分先のことと思っていましたが、言われるようになったんだ!と可笑しな感動を受けています。

 昨年の誕生日の時、「ヒロシマの若者としてテレビや新聞に出ていたのですが…」というのを書いたら、これも子どもですが「ええ年なんだから、いつまでもこんなことを言うな」と、怒られていました。

 今年はこんなことは言いません。それはなんといっても、大晦日に亡くなった和田長久さんのことがあります。いろいろな意味で和田さんに頼り、生き方を教えてもらっていたのですが、残念ながら「もう頼る人はいない」と決意せざるを得なくなり、「ヒロシマの若者…」という甘え体質からは卒業しなけれればならないと、まさにこの年齢になって意識することになりました。

 僕と同じ誕生日の人は、世界的に超有名なのは北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の金正恩さんです。昨年は誕生日前の6日に核実験を行い、今年ももしかしたらと心配をしていましたが、行わないようですし大規模な祝賀行事も無いということで、マジに安心しています。

 日本では、あの小泉純一郎さんが誕生日です。小泉さんは「原発反対」を訴え全国で講演されています。ぜひ上関原発を建てさせない世論を強めるために、こちらにも来て欲しいと思っています。

 年賀状も一通り来るべき人からは届いたという感じになりましたが、今年95歳になられる大恩人の方からは来ていませんでした。たぶん亡くなったとしても連絡をするような人ではありませんから、「もしかしたら」と思って電話を掛けました。

 そしたら大きな声で「元気ですよ。この6月に『医療と社会』のセミナーを行う予定なのでぜひ来て講演して」と頼まれました。長い時間、社会のこと原子力発電のことなどを話しました。そして僕が雑誌などに書いたものがあれば読みたいから送って欲しいとも頼まれました。

 多くの素晴らしい先輩たちに育てられながら、ここまで来たという感じです。そして後輩たちが、後から繋がっています。何かを見せながら、前へ進みたいと思っています。といっても何時までも「省ちゃん」ですから、皆さんの期待に応えられるやらどうやら、という思いです。

和田長久さん追悼

 とりあえず、新年明けましておめでとうございます。希望とお祝いの気分になかなかなれないという感じですが、元旦にはわが家に12人の一族が集まり、正月らしい食事をしました。

 しかし心の中には大晦日の夕方に亡くなられた、大阪豊中市に住んでおられた和田長久さんのことが、離れませんでした。享年84歳です。和田さんとの出会いがなければ、僕が反原発運動に関わることは無かったと思います。この運動を通じて、国内はもとより世界中に多くの知人、友人を作ることができ、成長させてもらいました。

 名前は長久と書いて「ながひさ」さんと読むのですが、僕らの間では「ちょうきゅう」さんで通っていました。思えば1978年のことです。この年の春にニューヨークの国連本部で開催された第1回国連軍縮特別総会を前に、アメリカの草の根平和団体と交流するというツアーを、和田さんがリーダーになって、大阪の市民団体の人たちによって企画されました。

 約20日間の旅行でしたが、アメリカ国内を横8の字のように旅をしました。20日間の旅の中でホテルに宿泊するというのは3日間くらいしかありませんでした。ほとんどがホームステイ、教会、中には野宿というのも在りました。このツアーに僕を誘ってくれたのが、和田さんでした。

 それ以来、長い付き合いが始まりました。8月6日を中心に開催されるヒロシマの日の行事でも、和田さんは予定より一日早く来て僕と話しをするのが楽しみだとも言われました。

 たくさんの思い出があり過ぎて、多くを書くことができませんが、和田さんは運動には女性の参加が必要で、全員男性というような会議を嫌っていました。妻は明子さんというのですが、いつも「明子さん、明子さん」と名前で呼んでいました。また、とても美食家で広島の牡蠣が好物でした。昨年の2月に送ったら、電話がかかってきて、「広島のを食べたら、大阪で売ってるようなのは食べられへんわ、ありがとう」を連発していました。

 そして何よりも、原水爆禁止運動の生き字引でした。たくさん励まされ、話しをさせていただき、指導もされました。運動を組織するために、極秘に作戦というか、仕掛けをしたこともあります。

 和田さんが亡くなられたことを、何人かの友人に知らせたら「モスクワにあるチェルノブイリのリクビダートル(事故を収束するために働いた労働者)のミチンスコエ墓地で和田さんが号泣されたことを思い出しました」というメールが帰ってきました。

 最後の著書となったのは2014年8月に発行された「原子力と核の時代史」は、486ページの超大作でした。

 さよなら長久さん、本当にありがとうございました。決して忘れません。広島牡蠣の最も美味しい時期となりました。今年も送りたかったです。

「ゴメン」も無く、先送りされていく

 今年も今日で終わり、何もかもが先送りされているという思いがしています。一番は何といっても「反省」です。あれだけの原発事故を起こしても、東京電力も政府も「ゴメン」と言いません。

 朝方から孫が母親から怒られているようです。何の理由で怒られているのか分かりませんが、孫がどうしても「ゴメン」と言わないようです。東京電力も政府も「ゴメン」と言わないのですから、孫の気持ちも分からないでもありませんがね。

 以前、「ケンカの仕方」という一文を書いたことがありましたが、最近は子どもも親世代も、謝るということをしなくなったように思えてなりません。謝ることは責任を取ったことになり、責任を取れば金を取られるということに通じるのでしょうか。子どもに、そんな気持ちが働いているようには、思えませんが。

 先送りといえば、放射性廃棄物の地層処分について「科学的有望地」を年内に公表すると言っておりましたが、先延ばしにしたようです。最初はそう言ってましたが、間からは「科学的有望地を明らかにする時期を、年内に明らかにする」に変わったようですが、それさえも示されていません。

 もう一つは民進党の「2030年代原発ゼロ戦略」の工程表ですが、これも年内に明らかにすると蓮舫さんは発言していたと思います。これも無しのつぶてのようです。

 国民は忘れただろうと思って「知らんぷり」をしておこうと思っているかも分かりませんが、それでは国も民進党も責任在る組織の立場とは言えないでしょう。明らかにできないのなら、まずは「ゴメン」と言って、その理由を説明する責任は当然在るのではないでしょうか。

 高速増殖炉「もんじゅ」の廃炉が決まりましたが、1兆円以上の大金を使っておいて、どこがどうして失敗だったかということを、まずは「ゴメン」と言って総括するのが、社会の基本原則ではないでしょうか。責任が経産省や文部省だけに問われるのでは、これも違うと思います。中国電力も「資源の少ないわが国では、原発から生み出されるプルトニウムを…」という決まり文句を、ずっと使って金も人も注ぎ込んでいたではありませんか。

 安倍晋三くんが真珠湾に行きましたが、「ゴメン」は言いませんでしたし、広島に来たオバマくんもそうでした。

 孫が「ゴメン」と言ったようで、元気な声をだして遊びに出かけました。これでわが家の雰囲気も、和んだという感じになりました。

 1年間、「省ちゃんの前向き語り」に付き合っていただきありがとうございました。皆さんくじけずに、2017年に挑みましょう。

クリスマスイブ

 クリスマスイブですね、昨日のお昼に娘が住んでいるマンションで一日早いクリスマスの食事会をやりました。子ども、孫、娘の夫のお母さんら総勢18人くらいが集まったでしょうか。僕がこの中で最高齢者になります。

 娘の住んでいるマンションは、この街の中でも一番と思われるほどの高層マンションです。その最上階にこのような集まりが出来る部屋が在り、天気も良く安芸の宮島もNTTビルの鉄塔も小さく低く見えました。

 クリスマスといえば、思い出すのは1956年、昭和31年のクリスマスイブのことで、僕は7歳でした。その3年前に父親を亡くし、親戚が持っていた、わら屋根の古い家に住まわさせてもらっていました。仕事から帰ってきた母が僕へのプレゼントをこっそりと、ご飯を炊くカマドの方へ持っていくのを見ました。凧が見えたので、分かりました。それまではサンタは何の疑問をなく信じていたのですが、この時「もしかしたら」と思いましたが、そのことは言いませんでした。この年齢になっても、その日の夜のことは忘れません。次の朝、マクラの上には凧ともう一つ何かが置いてありました。

 クリスマスを3か月くらい前に控えていた頃、「○○が欲しい」と母にねだると「サンタにお願いしんさい」と返されたものです。しかし今の子どもたち、玩具をねだるとサンタまで待つことなく、だいたい買ってもらっていますね。親が買わなくても、祖父さん、祖母さんという手段も今はまだありますから。

 新聞を読んでいると、今年の出生数が100万人を割る見込みという数字が出ていました。100万人を割るのは統計を取り始めた1899年以降、初めてということです。出生数が最も多かったのは1949年の269万7千人で、まさに僕が生まれた年です。一方、今年亡くなった人は昨年より約6千人多い129万6千人とみられるそうで、人口の自然減は過去最大の31万5千人と推計されるそうです。

 同じく新聞ですが、“脱ポピュリズム 「昭和の社会」と決別を”と題して歴史社会学者の小熊英二さんが文章を載せていました。ポピュリズムとは一言では「大衆迎合主義」との意味です。エリート層と対峙し対決して、政治の支持を受けようとする考えで、アメリカ大統領に就任するドナルド・トランプもこのことを訴えて大統領選挙に勝利したのだと話す人もいます。

 今月は二度の講演を行いました。一度は広島で「これからの原発状況はどう動くか!」と題したもの、二度目は下関市で「被爆二世として歩んだ道」というタイトルでした。

 いつもは早目に出す年賀状も全部書いていません。今日は午後「(仮称)エネルギーパンフ」の編集会議、1月6日が締め切りという約4000字の原稿が一つ、本の編集作業、そして27・28日は連チャンで忘年会です。年明けは1月7日の新年会からスタートです。今夜、サンタが僕にも来るでしょうかね。凧でも良いけど!!

東京、3日間

 6日~8日まで上京していました。僕は几帳面というかイラチな性格で、新幹線内で食べる弁当は広島駅売店で売っている大関弁当、お土産はあの人には安芸紫、あの事務所にはもみじ饅頭の9個入りというように前もって決めています。新幹線の中では、あの文章を仕上げて、弁当は何時に食べるというのも決めるという感じです。でも帰りは、いい加減です。

 東京での用事は、橋爪文さんという被爆詩人の方の出版予定著書を校正、加筆、編集するというのが大きなものでした。橋爪さんは14歳の時に広島で被爆された方で、これまでも何冊かの本を出版しておられます。本人が言われるには「これが最後の本になるだろう」とされていますが、まだまだ頑張って欲しい貴重な方です。

 6日の午後2時頃には、橋爪さんの自宅に着きました。3人の人が手伝うために来ておられましたが、雑談もほどほどに作業にかかりました。夕方、3人の方も帰られて夕食は食べましたが、日にちが変わって1時が過ぎた頃に、どちらかともなく「今日はここらで終わろうか」ということで、明日への持越しになりました。翌7日は朝から午後3時過ぎまでやって、出来上がったものをプリントして、「もう一度、じっくりとチェックしよう」と決めて、文さん宅を後にしました。

 夜はある雑誌社の編集長さんと、食事をする約束をしていました。この出版社から、時々8000字くらいのものを書いているのです。ちなみに今年は、「電力自由化問題」と「オバマ大統領の来広」のことを書いています。ホテルにチェックインをして、約束のJR田町駅に向かいました。橋爪さんの作業の終わりが分からなかったので時間は決めていませんでしたが、6時に会いました。駅前の通り、ここを正月の箱根駅伝で選手が走るのだそうです。居酒屋に行って二人で飲み、食い、語り合いながら、次に何を書こうかという話しをしました。

 8日は参議院議員会館に福島みずほさんを訪ね、ついでに参議院厚生労働委員会を傍聴しました。国会議事堂には大勢の小学生と思われる子どもたちと、おばさん、おじさんたちが見学に来ていました。子どもたちを見て、今日の国会見学がキッカケになって、大人になった時に政治に関心を持つようになって欲しいなあーと本気で感じました。というのは、僕自身もその時は18歳くらいですが、国会傍聴をしたのが政治に関心を持つようになったキッカケの一つになっていますから。

 12時30分に新聞社に勤めている人で、以前に広島支局勤務をしていた人と会いました。結構上の立場にいる人で、なんとハイヤーで向かえに来てくれました。長い人生ですが、ハイヤーに乗るのは初めてです。ハイヤーにはメーターもいわゆる提灯という車の天井にあるマークもありません。大きな車で「すごい、すごい」を連発しながら昼食を予約していただいた場所に行きました。虎の門のアメリカ大使館近くで、あーこれが「トランプの日本ブランチ」だと思いました。食事をするところに着いて、キャリーバックを降ろそうとすると、「降ろさなくていいよ。食事が終わったらこの車で東京駅に送ってもらうから」と。

 楽しい食事を1時間半くらいして、新聞記者の友人とはここで別れました。ハイヤーの中で一人になって、「僕、靖国神社を見たことがないのですが、どの辺りですか」と運転手さんに訊ねると、運転手さんは「その辺りに回りましょう」ととても親切に言われて、ハイヤーでのミニ東京見物となりました。

 最高裁、裁判所、法務省、警視庁、靖国神社、イギリス大使館、千鳥が淵墓地、箱根駅伝のスタート、ゴールの場所になる大手町の読売新聞社前などなど、東京には2~3か月に一度は来るのですが、こんな形の東京見物は初めてです。小津安二郎の映画「東京物語」も思いながら親切に案内してもらい、夜8時頃に帰宅しました。

 なんと言っても感激はハイヤーに乗って都内を見たことでしょうか。翌日、この新聞社の人から、「昨日はありがとうございました。多くを学ばせていただきました」というメールが届きました。「また話しをいたしましょう」とも書いてありましたが、ハイヤーでの東京見物は一度で堪能でした。まあーこんな3日間でした。




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