Entries

身体で感じた広島・長崎の違い

 昨日の夕方、長崎から帰りました。5回の昼食・夕食の内、ちゃんぽん・皿うどんを3回食べました。もっとも有名だと言われている店では、約40分以上は待たされましたが、根性で待って「さすがー美味しい!」と食べました。 
 広島に来る人から「お好み焼きの美味しい店を教えて」と訊ねられることがありますが、ここが良いと言えるような店を知っておかなければなりませんね。

 広島での疲れた気持ちを徐々に平常に戻していくためには、長崎に行ったのはとても良かったと思っています。

 さて、身体で感じた広島と長崎の違いを書いてみたいと思います。言っておきますが、どちらが良いとか悪いとかをいうものではありません。

 長崎駅に降りると、駅の改札を出たところに赤字で「歓迎」と書いた「原水禁大会ご一行様」というのが目につきました。たぶん長崎市かJRが出したものでしょうね、広島駅ではないことですね。この看板だけで、暖かい「おもてなし」の気持ちを感じました。

 広島であって長崎で見当たらなかったこと、いわゆる「セクト系」の集会チラシはもらいましたが、市民団体が主催する集会などが余り無いことです。原水協主催のものは在るのだと聞きましたが、目に付きませんでした。

 9日の日は、爆心地公園辺りで「安倍は長崎に来るなー」というヘルメットを被ったデモ隊を見かけましたが、警察の警備がとても薄いというか普通のデモ隊への対応と同じだということも思いました。広島ではデモ隊より機動隊員の数の方が多いのではないかというほどの警備ですが、長崎はいたって少なく、数人程度のおまわりさんだけのように見えました。

 会場の場所がよく分からなく、交差点に立っている警察官に訊ねたのですがこれまた親切、丁寧に教えてくれて最後に「ご苦労様です」とまで言われて恐縮の極みです。

 そして、市主催の式典に「平和への誓い」というのがあり、被爆者代表の方が話されます。その中で「国会と政府は、憲法に反する安全保障関連法を廃止し、米国の『核の傘』に頼らず、核保有国に『先制不使用宣言』を働き掛けてください」と話された部分、そして最後に「広島、福島、沖縄の皆さんと連帯します」と言われた箇所、僕は爆心地公園の中で持参したラジオで聴いていましたが、広島では無いことです。

 安倍首相が昼食を食べ、被爆者からの要望を聞く会の会場となったホテル前をたまたまその時刻に通ったのですが、入り口付近はホテルの従業員が数人立っている程度でした。ここでも広島での警備のような嫌らしさを感じませんでした。

 広島は首都に近いから、永田町の思惑を過剰なまでに意識するのでしょうかね。開かれ方では、長崎の方が大物というのが実感でした。





僕のハチロク

 8月6日を挟んだこの期間を総称して、「ハチロク」と言います。その「ハチロク」ですが、今、長崎に来ています。長崎は10年以上前までは、被爆二世組織の代表として毎年来ていましたが、その役員を辞してからは来る回数がぐーんと減りました。

 少々年齢を重ねたら広島での行事だけで疲れが残るために、身体のためにはその方が正解だと思っています。

 その「ハチロク」ですが、なんといっても小学校1年生になった孫は8月6日が登校日になり学校へ行ったことです。学校では、たぶん式典の様子をテレビで観て、先生が何か話しをしたのだろうと思います。「じいちゃんに教えてちょうだい」と訊ねたのですが、教えてくれませんでした。それでも8月7日の朝、僕が長崎へ行く支度をしていたら、「後2日寝たら、長崎に原爆が落ちた日だー」と話していましたから、さすが俺の孫だーと喜んでいました。

 「ハチロク」に何をしたかを全部書いていたら、相当に長くなるので、思ったことの二つを書いておきます。

 それは広島の式典でのあいさつや市長の平和宣言です。市長の平和宣言ですが、『この広島の地で「核兵器のない世界を必ず実現する」との決意を表明した安倍首相には、オバマ大統領と共にリーダーシップを発揮することを期待します』の部分です。オバマがリーダーシップを発揮していない、発揮できないことを十分知っていながら、そして安倍首相が核兵器所有について憲法に違反しない論者と知っていながらであるならば、痛烈に皮肉を込めたものだと感じました。

 その次に『核兵器のない世界は、日本国憲法が掲げる崇高な平和主義を体現する世界でもあり…』の部分、これも何とも言えない皮肉を感じました。市長が本当に憲法を大切だと思うのなら「憲法改正の動きに強い危機感を思う」くらいを言えば良いのでしょうが、まあー永田町に目が向いている市長ですから、期待できないでしょうね。

 一連のあいさつで湯崎英彦県知事の次の発言は、久々のヒットだと思いました。次の部分です。
「安全保障の分野では、核兵器を必要とする論者を現実主義者、廃絶を目指す論者を理想主義者と言います。しかし、本当は逆ではないでしょうか。廃絶を求めるのは、核兵器使用の凄惨(せいさん)な現実を直視しているからです。核抑止論はあくまでも観念論に過ぎません。核抑止論は逆に核が二度と使われないことを保証するものではありません。それを保証できるのは、廃絶の他ないのです。このあいさつはとても興味深いものだと思いました。

 今年は広島も長崎も開会総会に参加しましたが、長崎の開会総会は、総会を支える人が多くいたことです。被爆者の人たちだけのコーラス団、最後に歌を唄ってくれた人は100人以上いたと思います。長崎市長も何の原稿をみることなく、自分の言葉であいさつをしました。

 映像もふんだんに使った開会総会だったと思います。総会を支える人をたくさんお願いして、自分たちが作った総会だと思う人が多いほど成功なのではと思います。



藤田祐幸さんが亡くなられた

 7月18日21時45分、藤田祐幸さんが永眠されました。一昨年だから2014年10月26日に、広島市内で開催した「反原子力ディ集会」で講演してもらったのが最後となりました。

 2013年に胃ガンの手術をされたということを聞いていたので、広島での講演はどうだろうかと心配していましたが、その年の9月に東京の亀戸中央公園で開催された反原発集会で会いました。少し痩せられてはいましたが、無二の親友という広瀬隆さんと話しておられたので、「どうですか体調は?広島は来て頂けますよねえー」と言ったら、「そりゃー行かにゃあならないだろうー」と、あの笑顔で答えてくれました。

 慶応義塾大学の助教授として物理学を教えていた時は、関東地方に住んでられましたが、2007年に早期退職をし、長崎県西海市に移住されました。「浜岡原発が怖くて九州に逃げてきたのだ」と話しておられましたが、ホントのことは知りません。

 生まれは千葉県で、前広島市長の秋葉忠利さんと高校が一緒だったと聞いていましたから、本当に原発事故が怖くてというのが正解だったかも知れません。たまに「どうしておられますか?」と電話をすることがありましたが、「自給自足で自然を相手に農作業をするのが楽しい」と笑い声で話されていたのです。

 福島原発事故後は、全国各地で講演もされていました。事故後は事故周辺地を訪ね、広い範囲の放射線量を測定するなどを行い、その結果は雑誌に掲載されていたと思います。

 広瀬隆さんによると、この4月14日に発生した熊本地震の時は久留米の病院に入院されていました。広瀬さんに電話で「震源地に近いので、揺れが激しくて、夜も眠れない」と話しながらも、広瀬さんが「中央構造線が動いたんだよ」と言うと、「そうなんだ。余震を見ていると、きれいに中央構造線の上で発生している。こんなのは見たことがない」と、気力いっぱいの声で地震の解析をされたそうです。

 僕は高木仁三郎さん、久米三四郎さん、そして藤田祐幸さんという素晴らしい人生の先輩から「原発」を教えていただきました。「原発」の仕組みとかいうだけでなく、「原発社会」の不公正を教えていただいたように思います。

 しかし藤田さんで3人とも、あの世の方になりました。もちろんまだまだたくさんの方がいますが、3人は格別でした。すごく寂しくて、悲しくて、孤独感を感じています。

 今年の正月も藤田さんからの年賀状が届きました。青い海と空に一羽の鳥が飛んでいる背景の絵柄の中に、次の文が書いてありました。

頌春 2016年元旦
この一年、私たちは、平和や戦争、基本的人権や
命の尊厳、差別や偏見について、そして何より歴
史と哲学について、もっともっと語るべきである
ことを思い知らされました。野蛮を駆逐するのは
知性であることを学びました。
新たなる一年が希望の時代の幕開けになることを
心から祈念します。


 ウサギの島と鳩の街

 参議院選挙が終わったのを待っていたかのように、「8・6」関係などの会議入っていて、ブログを書くというゆったりとした時間が持てないでいました。それも昨日まででやっと落着きました。

 7月15日にNHKテレビのフェイスという番組で、「毒ガスの島 ウサギ人気の裏側で…体験を語り始めた人々」というのをやっていました。たぶん、中国地方だけで放送されたのだと思います。

 広島県大久野島、ここは戦時中毒ガスが作られていた島で、その毒ガスは中国などの侵略戦争などに使われたそうです。地図からも消されていた島で、秘密の島とされていました。僕がこの島のことに詳しくなったのは、写真家の樋口健二さんの写真集「毒ガス島」を見た時からです。

 大久野島には今でも、その歴史を残している毒ガス工場跡なども残っています。しかし今は「ウサギの島」としての方で有名かも知れません。この島の近くに住んでいる友人は「最近は外国人の観光客がいっぱいだ!」と話していました。島の中には国民休暇村、海水浴場、キャンプ場も在り観光地になっています。

 毒ガスは兵器として多くの人たちを殺し苦しめたと同時に、製造に関わった人たちを苦しめました。主に悪性腫瘍(ガン)や様ざまな呼吸器疾患に罹っています。製造には広島県内はもとより愛媛県などの周辺の島などからも、学徒・婦人会・女子挺身隊の身分で動員されたそうです。最盛期には5千人とも6千人ともいえる数の人が働いていたそうです。

 いつも思っているのですが、毒ガス工場で働いていた人は国との雇用関係で働いていたのに違いないと思うのです。原爆被爆者への国家補償が行われない理由に国は「一般戦災者との均衡」を理由に補償が行えないとしています。いわゆる「受任論」ですが、毒ガス製造に関わった人は間違いなく雇用関係があったと思います。

 赤紙で徴兵され、兵士として戦争に駆り出された人には今でも遺族年金が支払われています。しかしこの毒ガスで働いた人には、そういうものはありません。毒ガス被災者への対策法はあると思いますが、あくまでも特殊な被害だということで認定、非認定というように分類されて対策が異なっています。

 毒ガス障害の認定を受けた人には、俗にいう「毒ガス手帳」というのがあります。1980年代には広島県各地に毒ガス後遺症患者の会が生まれ、代表の人たちは繰り返し国に陳情などを行ってこられました。しかし全員への救済する道は開かれないままに、被害者は高齢化しています。

 国の毒ガス被災者と原爆被爆者への対策が、ほとんど同じだということも忘れてはならないと思います。しかし、毒ガス被災者と原爆被爆者が一緒になって国への働きかけなどの行動をしたというのは聞いたことがありません。

 この問題で「毒ガス手帳」と「原爆被爆者手帳」の二つを持っている人に会ったことがありました。毒ガス製造に従事していて体調を壊し、実家のある広島市に帰っていたら原爆に遭われた人でした。

 自宅を訪ねゆっくりと話しを聞かせてもらいました。この方も既に亡くなられています。まだまだ忘れてはならない広島の歴史を学んで、被害者にも加害者にもならない気持ちを固めねばと思っています。

 夏休みですし、この夏でも大久野島へ行ってみようかと思っています。ウサギを見て、海水浴もして、毒ガスの跡を見て考えてみようかと!





日本被団協総会

 日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)の定期総会が、6月15日~16日の2日間東京で開催されたという新聞記事を興味深く読みました。オバマ米大統領の広島訪問について、総会参加者から「(原爆投下の責任について)謝罪を要望すればオバマ氏が来ないと、自主規制したのではないか」と問題提起したことに端を発しています。

 被団協が1984年に発表し、運動の根幹としてきた「原爆被害者の基本要求」で米政府に謝罪を求めている点を踏まえ「言行不一致だ」と訴えたということです。総会最終日の16日に行った総会決議ではオバマの演説について、「大統領としての(原爆投下に関する)責任は一切語らなかった」と指摘し、「投下に対する謝罪の証しとしても核兵器廃絶への責任と行動を一層求めなければならない」としました。総会の討論ではオバマ氏の訪問を好意的に受け止める声もあったが、決議の内容に異論は出なかったとのことです。

 これらは全て新聞情報です。詳しいことが知りたいので、日本被団協のホームページを見ましたが、まだ総会のことは掲載されていませんでした。たぶん知り合いの方が出席しておられるでしょうから、聞いてみようと思っています。

 オバマさんが広島を訪れるということが決まった時、被爆者団体の方が「謝罪なんかしなくて良い。来るだけで良い」という発言をしました。当然のことですが、被爆者の人もいろいろな考えを持っているのですから、意見の違いがあるのは当たり前でしょう。

 現職の米大統領が初めて広島を訪れる、最初にこれを聞いた時に「すごい!」と「舞い上がった」ように嬉しくなって、「来りゃあーエエ」と発言したのも否定するものでもありません。

 謝罪について言えば、1963年に米国による広島、長崎への原爆投下を国際法違反という「原爆裁判」東京地裁判決の草稿を書いた元裁判官の高桑昭さんが、その当時を振り返り「門前払いでも良かったのだろうけど、腹を決めて書いた」とインタビューに答えていました。

 このインタビューの中で次の答えが僕には印象的でした。判決への反応についてという問いに答えて「言い渡し直後はマスコミで少し騒がれたけど、その後は思ったほどではなかった。『拍子抜けしたね』と、裁判長と苦笑いした覚えがある」とのことです。この判決を大いに利用するという運動体側の考えがあるのなら、当然オバマにも謝罪を求めるのがスジではないでしょうか。

 オバマ大統領来広から2か月近く経ち、冷静になって考えれば多くの問題点が出てきたというのも、興味深いものです。広島市では市内の比治山に「オバマの碑」の設置を検討しているようです。

 来月発刊される雑誌に「オバマ大統領の来広をヒロシマで視る」という原稿を書きました。8500字を指定されたのですが、結果的に8800字程度になりました。その中の5番目のセッションに次のように書いています。皆さんどう思われますか。

 ビジョンの無かった「受けて側」のスタンス 
 それにしてもせっかくのチャンスを最大限利用する考えもビジョンも無かった広島市と日本政府の姿勢は、悲しくもあり呆れもした。政府は安倍が首相であるので、期待することすら馬鹿げた話しではあるが、広島市には「ヒロシマ」の代表としての独自のビジョンを出して良かったのではあるまいか。
 G7サミットに参加した各国首脳に対して広島を訪れることを薦め、せめてでも核兵器保有国のフランス・イギリスの首脳たちには、オバマとともに「広島に来るように」とのよびかけを、結果が無理だったとしても行うべきではなかっただろうか。
平和公園一帯に中高生を呼んで公園を埋め尽くしオバマの話しを聞く。中高生らにとっては、オバマと一体となったことは最大の平和教育の場となり、世界の中のヒロシマをあらためて考える、絶好のチャンスになったのではないか。そしてとても残念だったのは、オバマに対し田上富久長崎市長を紹介しなかったことである。
 「受けて側」の広島市の、キャッチャーとしてのビジョンもポリシーも見受けられなかった。警備上「何ごとも起こらない」ことだけしか考えなかったのではあるまいか、「ヒロシマの心」をベースにした、後に続くヒロシマでの提案をすべきではなかっただろうか。そういうビジョンを見せて欲しかった。そしてメディアがこの問題を指摘しないのも、メディア自身にもビジョンが無かったというべきだろうか。
 このことを友人に話したら、「それは我われ一人一人に問いかけられている問題でもあろう」と厳しい答えが返ってきた。そうかもしれない。

 来月の15日過ぎに発刊される物です。「読んでみたい」という方がおられたらお知らせください。

Appendix

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR