Entries

市民科学者について考える。その2

 1975年9月、千代田区神田司町にあった原水禁本部事務所の屋上のペントハウス的な小さな部屋で原子力資料情報室がスタートしました。初代の代表は武谷三男さんが就任しました。僕は、個人的には武谷さんとは面識はありませんが、武谷さんが書かれた岩波新書の「原子力発電」という著書は、僕が初めて原子力発電と向き合った本です。

 その武谷さんと高木仁三郎さんとの間で、熱い議論が交わされたようです。「時計とかな槌論争」と言われるものです。資料室の立ち上げに参加した人たちの大勢の意見は、資料室は専門家各人が資料をもち寄り、共通に閲覧し、必要に応じて意見交換するという、一種のサロン的な場であり、それ以上は頑張りすぎない、ゆるやかな場であればよい、というものだったようです。この意見を積極的に主張していたのが、武谷さんだったようです。

 武谷さんは、高木さんに対し「科学者には科学者の役割があり、(住民)運動には運動の果たすべき役割がある。君、時計をかな槌代りにしたら壊れるだけで、時計にもかな槌にもなりはしないよ」という意見でした。
 それに対して高木さんは「資料室はともかく、私個人はそういう役割人間であることを拒否したいと思います。少なくともかな槌の心を併せもった時計を目指したいのです。時計は駄目でもせめて、釘の役割でもよいのです」と、そんな風に言ったみたいです。

 武谷さんは、学問的にも思想的にも輝かしい業績があり指導的地位にあった方でしたが、高木さんの発言はある意味、生意気な発言だったと受け止められたかも知れません。

 高木さんと会った時、二人だけの会話ですが、「省ちゃん、僕は資料室の総務部長だし、兼営業部長だし、研究者だし、運動に担い手だし、兼任はたいへんだよ」と話したことがあります。たいへんだと言いながらも、その顔は満足そうでした。あくまでも、心許せる二人の会話です。

 市民科学者は、分かりやすく話すことのできる能力が必要だとも話していました。この点では、高木さんは相当に努力されたと思います。「この事を説明するには、数式を書けば一番なのだけど、それでは一般的には分からない」とこれもよく聞いた話です。優秀な学者だからこそ、いい加減な説明では納得できないという考えから、高木さんの講演はまわりくどく、難しいという評判を最初頃はよく聞いたものです。
でも、相当に努力されたと思います。

 そして、すごい理想主義者でもありました。チェルノブイリ事故後の1988年4月、日比谷で行った全国集会をキッカケに「脱原発法」の制定を求める署名活動が取り組まれました。合計で約330万人の署名を集め、1990年、91年に国会請願を行いました。僕のように、「署名を集めてもどうにもならんよ」と冷めた目で見るのと違って、高木さんはこの請願行動によって、国会の場で「脱原発法」の議論が大きく展開され、この法律が出来るという理想を本気で考えていました。しかし、国会の中では当時の社会党を中心にした一部議員が取り組んだだけで、署名はまったく無視され、議論もされずに門前払いになってしまいました。これには、高木さんは相当にショックを受けたようでした。

 このことがキッカケになって、高木さんは病気で3か月の休暇を取ることになりました。

 「その2」で終わるかと思っていた、市民科学者を考えるですが、ついでにその3まで続きそうです。すみませんが、もう一回だけお付き合い下さい。

スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://gomenda4918.blog.fc2.com/tb.php/151-c025d0c6
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

Appendix

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

Extra

プロフィール

省ちゃん

Author:省ちゃん
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新トラックバック