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市民科学者について考える。その1

 この度、高木仁三郎市民科学基金の助成選考委員という役割を担うことになって、市民科学者ということについて考えていました。

 高木仁三郎さんは、東京大学の理学部を卒業後、原子力業界に就職し、その後都立大学で助教授としての「安定」した仕事に就きましたが、その立場を辞めて、その後脱原子力運動の象徴的な存在となり、NPO法人原子力資料情報室を立ち上げた方です。
 2000年の10月8日に62歳の若さで亡くなっています。僕とは、「仁さん」「省ちゃん」と言い合える間柄でつき合わさせてもらいました。

 その高木仁三郎さんの遺志を継いで作られたのが、高木仁三郎市民科学基金です。僕がこの助成選考委員になったことは、名誉なことでもあり責任の大きさを感じていました。

 そこで、高木さんが書いた「市民科学者として生きる(岩波新書)」を改めて読み直しました。この本の帯文には、「がんと闘いながら、明日の夢を語る。専門家と市民のはざまで模索を続けた、一科学者の生き方」と書いてあります。

 高木さんが市民科学者を考えるキッカケとなったのは、「アメニモマケズ」の宮澤賢治です。宮澤賢治は、1926年教師として勤めていた花巻農学校を辞めて羅須地人協会をつくった人です。花巻農学校を退職した理由については、いろいろな理由が挙げられていますが、生徒たちには「農民になれ」と教えながら、自らは俸給生活をしていることの葛藤があったのではといわれてます。そこで、羅須地人協会をつくり、賢治自身も昼間は農業を行いながら、夜に農民を集め、エスペラント語、農業の技術、農民の文化などを教えています。

 しかし、「若者に社会教育を行っている」という噂が出て、警察から聴取を受けることになり、1年も経たない時に健治自らは離れています。

 宮沢賢治の、この羅須地人協会の講義案内文には次のように書いてあります。『今年は設備が何もなくて、学校らしいことはできません。けれども希望の方もありますので、まず次のことをやってみます。われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか 1時間』1時間というのは、講義の時間です。

 高木さんの生き方に大きな影響を与えたのが、この「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」という言葉です。

 1960年代の学生運動が盛んな時代に、学生たちの「学問とは何か」「あなたはなぜそのポストにいるのか」という、葛藤と思いの中で人びとは、三様の対応をしたと「市民科学者として生きる」には書いています。
 一つは科学者、技術者という専門家自体が特権的な存在だから、この特権をすてる。いわばドロップアウト派です。簡単にいえば、教師や学者を辞めて普通の会社員になることです。
 二つ目は、体制の中にとどまって、その矛盾と闘う。これはいわば内部抵抗派です。僕がすぐに思い浮かんだのは、京都大学原子炉実験所の「熊取七人集」という人でした。
 三つ目は、体制内のポストを捨てたうえで、自前の科学(学問)・技術をめざす、というものです。高木仁三郎さんは、この三つ目の道をめざしました。三つ目の道を歩む人というのは、極めて稀だと思います。

 まだ、長くなりそうなので、ここまでを「市民科学者について考える。その1」として、続きは次号にします。

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