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大和ミュージアムとてつのくじら館

 28日の土曜日、満4歳になる孫に連れられて、呉市にある大和ミュージアムと通称・てつのくじら館、正しくは海上自衛隊呉史料館に行ってきました。
 平和運動に少しだけでも関わっているつもりの者が、「なんで大和ミュージアムやー。海上自衛隊呉史料館かー」と怒られそうですが、これも勉強だと思った次第です。

 てつのくじら館の入館料は要りません。主に潜水艦を宣伝しています。写真も自由、本命はなんといっても本物だった潜水艦そのものの中に入ることが出来ることです。これが、展示してある「てつのくじら」なのです。ボランティアガイドさんが、親切丁寧に説明してくださいます。潜望鏡も直接覗くことができます。

 売店も在り、お土産ものを買うことができました。そして白色の制服を着た若い自衛官が、優しく話しをしてくれます。孫は制服を着させてもらって、簡易に作られた潜水艦の写真をバックに記念撮影もできました。簡単なアンケートに答えたら、絵はがきがもらえるということで、記入していきました。「年齢」、「何回来たか」、「楽しかったかどうか」などの質問に続き、自衛官になることに興味があるかといき、必要な資料を望むのなら連絡先を書くようにと誘導されていきました。

 僕は、安倍晋三くんの住む住所を書こうかなと思いましたが、これって罪に問われると思いやめました。そして笑顔の自衛官さんに「ごめんねー。もう65歳だから、今さら自衛官にも成れないだろうしねえー」と言って絵はがきだけはもらいました。

 大和ミュージアムは、大人500円と有料です。実物の10分の1の模型が展示してあります。これがなんといっても見ものとなっています。莫大なお金を使って戦艦「大和」を作り、戦争に使われる途中に爆撃を受けて沈没しているのです。

 展示場には、特攻隊になって出撃する戦闘機も本物が飾ってありました。そして、特攻隊になった若い兵隊たちの遺書とかいったものも展示してありました。

 孫と一緒だったので、ゆっくり遺書を読むことが出来ませんでしたが、通常は可哀そうという気持ちを持つものでしょうけど、相手がいるということも知っておかなければならないと思います。相手はこれで殺される対象だったのですから、殺される側の立場はこの中では、ありませんでした。

 最近のヒロシマ修学旅行は、平和公園や原爆資料館を見学した後、呉に行って大和ミュージアムを見学し、てつのくじら館を観るというのが、コースになっているとも聞きました。

 平和の大切さを原爆資料館で感じ、大和ミュージアムで「敵」と闘うことを学ぶ、なんともイヤハヤですね。

 孫は大和ミュージアムの中にある、子どもコーナーで嬉しそうに遊んでいました。
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中国電力株主総会

 26日、中国電力株主総会が行われました。僕たちが株主総会に、株主提案議案を提出するということを始めて21年目です。株主提案議案を提出するという作業が、法律の改正(改悪)によって結構面倒になりましたが、79名の株主と、株数7万7600株で行うことができました。

 中国電力を含め3月期決算の会社の株主総会は、この6月末に開催されるのですが、僕たちの株主提案を行うための作業というか準備は、昨年の秋から始まりす。だから、来年の株主総会に向けての準備は3か月後から始まるのです。

 今年は、なんといっても嬉しかったのは、北陸電力の仲間たちも株主提案議案の提出ができたことです。昨日の東京新聞夕刊は大きな見出しで「9電力株主総会 全社で脱原発株主提案」と書き、「過去に一度も株主提案がなかった北陸電力を含め、今年は全社で脱原発を求める事前の株主提案が出された」とも書いていました。

 さて中国電力の株主総会ですが、総会場で山下隆会長や苅田知英社長の顔を見た瞬間に、「イザ、総会だー。やるぞー」という本気度をまったく感じることができませんでした。自分の仕事に自信と確信が無いと表れる表情です。

 中国電力取締役にとって、僕たちは憎たらしい存在かもしれません。しかし、5百人近い株主が出席しているのです。動員されたと思われる社員または関連会社株主も多く見られますが、総会終了後に親しく話した女性の株主さんのように、「初めて参加した」という方もいるのです。会社の宣伝を行う、絶好の機会でもあるはずです。もっと分りやすく、丁寧に説明をしても良いのではないでしょうか。高額なコマーシャル料を払うこともなく、新聞やテレビは電力会社の株主総会については、大きく取り上げてくれるのですし。

 今、中国電力にとって、新しい規制基準に対する対策費用は大きな負担になっています。島根原発の安全対策について、昨年の株主総会では1000億円といってましたが、今年は2000億円になっていると言い、もっと増える可能性もあることを示唆しました。

 電気事業法の改正により、これからの電力会社の経営も、湯水のごとく原発立地点に金をばらまき続ける時代ではなくなるのです。今、原発再稼動を主張しているのは、経済界の代弁者である政治家とこれまで原発マネーに侵され続けている立地自治体だと思います。ある意味、その狭間にいる電力会社も可哀そうかもしれませんが、国策民営の手先きになっている電力会社を、だからといって同情する訳にはいきません。
 上関町の場合など、それによって32年間も苦しめ続けられているのですから。

 改めて、僕の部屋に貼ってある大好きな言葉を見ました。
本気
本気ですれば大抵のことができる
本気ですれば何でもおもしろい
本気でしていると誰かが助けてくれる

というものですが。これを中国電力の姿として読み替えました。

本気になれないから何もできない
本気でないから面白くない
本気でしていないから誰も助けてくれない。お金をせびられるだけ!

成熟したといわれる社会の中で

 アベノミクスの第3弾という新たな成長戦略が、閣議決定されたというニュースです。金融緩和という第1の矢、財政出動という第2の矢を放ち、第3の矢という成長戦略を放った昨年6月、この時は思うようにならなかったので、再び第3の矢が放たれたことになりました。

 この度の第3の矢である「成長戦略」には、原発再稼動を着実に進めるということを明記しています。そして、立地自治体との調整では国が前面に立つということも決めています。

 「成長、成長」という言葉を見ていると、もうリタイアしたのにお尻を叩かれる競争馬のようにも見えますし、高齢者がバイアグラでも飲ませて「元気を出せ、元気を出せ」と言われているようにも見えます。これでは、身体と心のアンバランスが生じて、たいへんな病気になりそうです。

 戦後の時期なら、「成長、成長」も「元気出せ、元気出せ」もそれはそれで良いとは思いますが、今の日本はある意味成熟した社会だと思います。それでも、成長だの元気だの言われると、後は環境破壊しか道はないと思うのですが。

 先日、JR電車に乗っていると窓からの景色の中に「昔の自然を取り戻そう」という意味の看板が目に入りました。僕が子どもの頃には、電気はふんだんに使うことはできませんでした。もちろんエアコンも電気冷蔵庫も在りませんでした。テレビが出た始めは、近所でテレビを持っている家に「おばさん、観させて」とお願いしてテレビを観させてもらったものです。食堂には何人もの人がかき氷を食べながら、大相撲中継を観ていたものです。

 今考えてみて、あの頃が決して不幸だとは思いません。電気が在る無しは「幸不幸」とは関係ないと思います。電気の在る無しが幸せ基準の目安だとすれば、明治時代以前の人は、極端な話しみんな不幸だったことになります。

 考えると、今の方が相当に不幸な状況ではないかと思うのです。携帯電話やスマホを持って、パソコンから何でも調べることができます。東京も日帰りで用事がこなせる、これって本当に幸せなことでしょうかねえー。という僕も携帯もパソコンも持ってはいるのですが。

 高度に成熟したこの国には、携帯もパソコンも使いながら、この国だからこその「あるべき姿」というのが在るように思うのです。それは兵器ではなく福祉だと思います。

 もう10年以上前のことですが、僕は参議院選挙に立候補したことがあります。その時のスローガンは「スロー・スモール・シンプル」そして、継ぎ足しでその後に「ビッグスマイル」を加えました。

タヒチにある核実験被害者記念碑の永久保存を求めて

 南太平洋タヒチのパペエテにある、フランス核実験被害記念碑の取り壊しが行われようとしているとの連絡が入ってきました。

 この記念碑は、長年独立・反核運動に身を捧げ、2014年に仏領ポリネシア大統領となったオスカー・テマルさんが、任期中の2006年にポリネシアの核実験被害者団体のモルロア・エ・タトゥ(ムルロアと私たち)とともに建設したものです。僕も、一度このモルロア・エ・タトウの集会に呼ばれてタヒチを訪れたことがあります。

 この記念碑のあるところはかつて「ジャック・シラク広場」と呼ばれていましたが、テマル新大統領はここをモルロアでの最初のフランス核実験が行われた日にちなんで「1966年7月2日広場」と名付け、その40年を記念して2006年7月2日に除幕式を行いました。シラク大統領は、核実験を強行したことでも有名です。

 太平洋諸島には他の島を訪れる際に、訪問先への敬意と友情の印として自分の島の石を贈るという風習があり、この記念碑には太平洋を中心に、核実験場となった各地の石がたくさん埋められました。日本からも、広島と長崎の爆心地で採取した石を寄贈し、それを設置する式典も行われています。その時に同行取材したNHKがニュースとしても取り上げました。

 昨年、2013年に再び大統領になったガストン・フロス仏領ポリネシア大統領は、右派の大統領で就任後、「観光推進のためにパペエテのウォーターフロント再開発」を打ち出し、今年6月11日この記念碑のある地区の名前を以前のジャック・シラク広場」に戻すことを決めました。このフロス大統領は本人自身を始め側近たちの公金横領や汚職が絶えず「ポリネシアを私物化したフランスで最も腐敗した政治家」と言われています。この取り壊しということは、ポリネシアから核実験の禍々しい過去の記憶を消し去り、被害者を葬り去ることにあると思います。

 この記念碑はポリネシアの歴史遺産であり、世界的にも知られているものです。「モルロア・エ・タトウ」の呼びかけがきっかけに、記念碑の保存を求める大規模なデモが22日に行われました。現地のニュースでは「反核運動、世代交代か?」という見出しをしておりました。この保存運動の急速な盛り上がりに対し、フロス大統領は記念碑の移設という提案をしてきましたが、「モルロア・エ・タトウ」らの団体は、「記念碑はあくまでも現在の場所に永久保存すべき」としています。

 僕たちはフロス大統領に対する要請書を、6月25日に送ることにしています。フロス大統領はあまり日本のことを知りませんので、日本人からの要請は大きな力になります。そして特にヒロシマからの要請は強い効果があると思います。

 みなさん、この呼びかけに賛同してくださいませんか。要請書は「核実験被害者記念碑の取り壊しの撤回とこの記念碑の現在の場所での永久保存を求めます」というものです。要請書の全文を読みたいという方にはメールなどでお送りします。一報していただければ助かります。僕のアドレスは、gomenda@bronze.ocn.ne.jpです。ことは急いでいます。ブログでお願いというのは、やりたくなかったのですが、お許しを!

 タヒチは日本からも、多くの観光客が訪れるところです。特に新婚旅行が多いです。何年か前に行った時、飛行機の中はまるですべてがカップルでした。一人旅の僕は奇異に見られたほどです。飛行機の乗務員から「あなたは真珠の売人か?」と訊ねられたほどですから。日本からはタヒチヌイ航空というのが週に2回飛んでいます。タヒチは画家のゴーギャンでも有名ですよね。

政治家の発言は本音

 石原伸晃環境大臣・原子力防災担当大臣が、17日の閣議後の記者会見で、除染廃棄物や中間貯蔵施設をめぐる福島県側との交渉について「最後は金目でしょ」と発言した問題、今朝現在、本人は取り消すことはせずに「全くの誤解、私の品を欠く発言」しています。

 たぶん、どこかの時点で自民党内や支持者からの外圧によって取り消さざるをえないでしょうけど、取り消したとしてもその理由は「外圧」であって、本人の考えはこの通りだと思います。野党からは辞任だという声が上がっていますが、自民党も公明党も問責決議案が出された時は反対するとしています。ということは、自民党も公明党も「最後は金でしょ」という理解なのでしょうね。

 「私の品を欠く」という言い訳を聞いて、笑ってしまいました。自分に品があると思っているふてぶてしさです。石原慎太郎という品の無さでは、ベストテンにでも入るお父さんの息子なのですから。

 それにしても後でどうなるかを考えない発言が多すぎます。昨日は東京都議会で、都の結婚・妊娠・出産に対する取り組みについて質問していた女性議員に対し、「そんなことを言う前に、おまえが早く結婚しないのかぁー」「子どもは産めないのかぁー」という自民党議員からと思われる男の野次が出たそうです。

 それにしても、特に東京都議会というところは品の無い野次が多いところです。この前も女性議員の質問中に「女性は結婚、出産して一人前」とか「それもできないヤツがウダウダいうな」という野次が出たそうです。

 こういう野次を飛ばす議員が選挙の時には、「女性の社会進出を促進します」とか「子育て支援にしっかり取り組みます」などという「公約」をノホホンというから、政治家は信用されないのです。だから嘘っぽく聞こえるのだと思います。

 かつて東京都議会では、ある議員が「被爆者を絶滅するにはどういう方法を取らねばならないか」という発言を行い、議会終了後のインタビューで「都は優性保護的な見地から、子どもを持たないように行政指導すべきだ」と発言し被爆者団体や被爆二世団体から強い抗議が行われたということがありました。

 日本はとりあえず言論に自由が認められている国ですから、「最後は金目でしょ」とか「女性は結婚、出産して一人前」「それもできないヤツがウダウダいうな」と有権者に訴えればよいと思います。

 同じことを繰り返しますが、政治家の発言は取り消そうがどうしようが、間違いなく本音です。株主総会中にも、株主から品のない発言をする人がいます。それは往々にして女性に対する差別・セクハラ発言です。

 もう亡くなられましたが、中国電力の元社長の松谷健一郎さんが「原発壊れて当たり前」ということを発言したのを思い出しました。もう何十年も前のことです。これは、「当り」でした。

原発復活の動きが強まっています

 原発復活の動きが強まっているように思います。4月11日に閣議決定された「エネルギー基本計画」を突破口に、この動きが強まり危険性を感じざるを得ません。まさにせめぎ合いの状況だと思っています。

 漫画「美味しんぼ」攻撃は、異常ともいえる総攻撃でした。そして、5月21日に福井地裁が下した、大飯原発3・4号機の差し止め判決に対する経済界や原子力業界からの攻撃も異常です。

 16日に明らかにされたアベノミクスの新たな成長戦略でも、原発再稼動を着実に実行していくとしています。そして17日に閣議決定された13年度版エネルギー白書も、原発再稼動の方針を明記しています。また経済産業省が本格検討に入った、再生可能エネルギーの固定価格買取り制度の見直しという口実の元の、再生可能エネルギー導入の抑え込み対策です。

 再生可能エネルギーの普及が拡大して、固定価格買取り料金が消費者の電力料金に上乗せされるという制度を格好の材料にして、「電気料金が上がりますよ」という脅しです。このことは、「エネルギー基本計画」でも書いていました。

 新聞は、決まったことや行事は書くようにしているようですが、ジャーナリズムとしての意見は相当に遠慮しているように思います。

 固定価格買取り制度で消費者が払う電気料金が上がるということでも、僕に言わせれば私たちが払っている電気料金の中に含まれている税金で「電源開発促進税」というのがありますが、これを本来の使い方にすることで消費者負担無しでやっていけると思うのです。
 この税金、電源利用対策として1kw/hあたり18.5銭、電源立地対策として1kw/hあたり19銭というものですが、標準的な家庭ではひと月あたり2百円を超えるといわれてます。これを本来の電源利用対策や立地対策に充てれば、消費者負担は無しでやって行けると思います。無しにならなくても、相当に下げることは可能だと思うのです。

 こういうことをマスコミは書きません。書けないのなら、僕たちに取材して自らの責任を回避して記事にすれば良いと思うのですが。

 原子力発電環境整備機構(NUMO)が、久しぶりに来月広島で放射性廃棄物処分を考えるシンポジウムを開催するということです。このシンポジウムには、最初の頃は僕もパネリストとして呼ばれていました。博多で開催されたのに1回、広島市で開催されたのに2回だと記憶しています。

 最近のシンポジウムでは、原子力発電反対派を入れないことにしています。御用学者や地元の消費者団体の人をパネリストにして、「うんうんやっぱり原子力発電は必要だ」と思わせるのです。

 現在の役人にしても電力会社や大会社の上層部といわれている人も、相手と対峙して論争をするというのは避けたいという傾向がとても強くなったように思うのです。そんなに怖いのでしょうか。それとも、自分に自信が無いのか、それとも学生時代から、論戦ということをした経験が少ないのでしょうか。もっといえば、決められたストーリーというか線路の上しか歩けないのでしょうか。

 そんなことだったら、子どもや孫から信頼されませんよ。「腕白でも良い、たくましく育って欲しい」。まあーこの国のトップが、「おぼっちゃん」だから仕方ないかあー。

生きる価値(ブログ200号です)

 水戸巌著作・講演集「原発は滅びゆく恐竜である」という本の「まえがき」の中に、京大原子炉実験所の小出裕章さんが「人は誰も、ある時に生まれ、そして必ず死ぬ。生まれ落ちる場所と時代を自分で選べるわけではない。死もたいていの場合は自分で選ぶのではなく、突然にやってくる。自分で選べるのは生まれて死ぬまでの間をどう生きるかということだけである」ということを、書いていました。

 先日、わが家の前の道路で猫が車にはねられて死んでいました。考えてみれば、人間として生まれたのも運命のようなものでしょうし、猫で生まれて交通事故で死ぬることもあるでしょう。その他の動物や植物として生まれることも選ぶことが出来ないものだと思います。
 たまたま人間として生まれ、その時が1949年という戦後まもなくの時期であったということです。僕の場合、特に両親が原子爆弾に遭遇していますから、ちょっとした運命で自分というものが存在して居なかったのではということは、たまには思うことがあります。

 もし戦時中だったら、僕は軍国青年だったかも知れないと思うことがあります。もしかしたらではなく、間違いなくそんな気がしています。お国のために死んでもよい、「天皇陛下万歳」と言って特攻隊に志願したかも分かりません。嫌、戦争反対を訴えて「非国民、アカ」とか言われて刑務所に入っている自分に自信が持てません。

 そうであるからこそ、運命というものを強く感じるのです。だから今の自分の生き方を大切にしなければということを思うのです。

 65歳になり職場を完全退職し、役所から送られてくるのは、満額支給になった年金の書類ですし、広島市が運営している娯楽施設の入場割引証、ニュースなどから聞くのは「65歳以上の高齢者」という言葉です。

 人生には生まれる、学校に入学する、卒業する、仕事に就く、結婚する、子どもが出来る、孫ができる、退職するというようなケジメというか、節目というものが通常のパターンではあるものでしょうけど、退職の次にくるケジメというのは「死」ということなのでしょうか。

 だからといって、省ちゃんは弱気になっているというものではありません。逆に開き直っているという感じです。僕の自慢だと思うことに、年上の友人が多いというのがあります。それも、仕事をしていた頃だけでなく、現在でもそれなりの社会的な立場にいる人です。最近、そういう人と一杯飲みながら話すことが数回ありました。

 もちろん、原則的に割り勘です。何度かは、省ちゃんの退職お祝い会ということでゴチにもなりましたが。そういう人と3~4時間も話し込むのでうすから、楽しいものです。そして共通する話題は、職場を退職した後からの過ごし方です。
 運悪く病気になって、思うように身体のいうことを効かなくなるという場合もあるとは思いますが、それなりの社会に対する影響力は持つことが可能だと思います。

 後2か月もすれば、ヒロシマの日がやってきます。恒例になった8月6日の夜の飲み会ですが、行きつけのいつもの居酒屋で楽しい会が待っています。今年はわざわざ青森県から90歳を超えた方も来るという連絡がありました。今から楽しみです。なにぶん、僕が一番の若年者ですから。

 ところで計算したら、今号のブログで200号になりました。去年の7月21日に衝動的に始めたものです。何人の方が読んでいるのかも、まったく分かりませんが、これからも思ったことを正直に書いていきたいと思います。

後々に火種を残さないように

 「言った、言ってない」「見た、見てない」というのは、往々にあることです。
 昨日の中国新聞に、「中電と反対派が和解 上関原発工事の妨害禁止」という見出しの記事が載っていました。

 新聞記事をそのまま引用すると「中国電力の上関原発建設計画の海面埋め立て工事をめぐり、反対派の祝島住民たちが妨害禁止の仮処分の保全取り消しを求めた申し立ての審尋が11日、山口地裁であり、中電と和解が成立した。」という記事で始まるものです。

 この記事の中で気になるのは、「住民側は、適法に埋め立て工事が再開された場合、仮処分命令で禁止された海上での妨害をしないとの不作為義務を中電に対して負うことを確認した。同(中国電力上関原発工事)準備事務所は『相手側が妨害しないとしたため、和解提案に応じた』」とした部分です。

 この記事をストレートに読む限りでは、何時の日か埋め立て工事が再開された場合には、埋め立て工事に対する抗議行動を行いませんと約束したことになります。たぶん埋め立ての再開は無いものとは思いますが、今の政権ではまったく無いとも言えないでしょうし、ある意味ではこれまで行われてきた抗議行動について、「ごめんなさい」と反省したことになるとも思うのです。

 現に今は埋め立て工事が行われていないのですし、行われていないのですから、当然「妨害」行為もあり得えないと思うのですが。

 新聞によると「山口県が公有水面埋め立て免許の延長申請を不許可にするなどした場合、最高裁で確定した妨害禁止の仮処分命令の申請を取り下げる△調査などを妨げない限り、住民側の海域への進入は妨害に該当しない-」とも書いてあります。

 これは、中国電力ホームページに書いてあるものを、分かりやすく解説したものです。山口県が埋め立て延長を不許可にした場合は、妨害禁止を取り下げるのは当然でしょう。

 この和解を担当した代理人弁護士さんに訊ねてみました。それによると、和解に対する、自分(中国電力)の勝手な評価ですね」とのことでした。まだ、和解文書は出来上がっていないようですから、その中身を見ることは出来ませんが、後々に火種を残すものにならなければとは思っています。

 誰もが、紛争は出来るだけ無い方が良いのは当然です。僕も、和解をまったく否定するものでもありませんし、出来るだけ和解して欲しいとも思う方です。

 だからこそ出来上がった和解文書に対して、それぞれの評価が異なってまた訴訟になるようなことは無いようにと思うのですが。
 それにしても往生際の悪い中国電力です。

東通原子力発電所も「再稼動」申請

 5月20日、日本原子力発電(原電)による東海第2原発の「再稼動」申請が行われていますが、昨日は東北電力の東通原発も「再稼動」申請を行っています。

 東海第2の運転開始は1978年ですから、すでに35年の老朽原発です。そしてもっとも大きな問題点は、原発から30㌔圏内に93万人以上が住んでいるというところです。30㌔圏内の人口では日本一です。

 昨年7月に原発規制基準が出来て最初の再稼動申請は、福島原発事故とは違う型の加圧水型(PWR)原発に限られていました。それも運転開始から30年以内というものでした。それが、沸騰水型(BWR)原発が再稼動申請するようになりました。また東海第2のように、運転開始から35年以上のものにも拡大し、後は北陸電力の志賀原発だけが残った形になっていました。

 志賀原発は直下に活断層があり、ここの再稼動申請はあり得ないというのが、当初僕が考えていたところです。しかし、ことここに至っては「やるのでは」という見方も持っていました。

 そしたら、6月8日の日本経済新聞が目に止まりました。これは北陸電力のコメントです。新聞によると「志賀原発2号機、安全審査申請へ 北陸電、来月にも。との記事が掲載されていますが、当社として、新規制基準への適合性確認申請の時期を決定した事実はありません」と書いてあります。こういう記事はだいたいに当たるものです。発表する前にリーク(漏れる)されたことで、メンツが潰されたのだと思います。

 この伏線は、去年の9月にも在りました。9月13日付けの北陸中日新聞は1面に「北陸電力は、原発西側の海岸に多くある溝のような地形は『浸食作用によるもの』で断層ではなく、それと似ている『S-1断層』の岩盤のいずれも断層ではないと主張している」と書いていました。
 節操もこれまでの「ケジメ」もないまま、各電力は再稼動申請に動いています。

 衆議院は原子力規制委員会の新しい規制委員2人を、強引に「原子力ムラ」の人間に差し替えることを決めました。最初の規制委員会委員の人事案については、すんなりと決まらずにいたのに、この度は数の力で強引に決まりました。

 「原子力ムラ」出身の田中知委員については、「問題あり」という新聞記事を見ましたが、新聞の扱いも小さかったように思います。そして、世論も今一つ危機感が無かったように思います。

 集団的自衛権問題、憲法問題、秘密保護法、非正規問題などなど、この国が抱える問題点が余りにも多すぎて、これらの課題について問題意識は持ちながらも、「動ける」人たちが少ない現実の中では人間もマスコミも含めて「目いっぱい」という状況なのでしょうか。

ある上関町会議員の死

 原発推進派の上関町会議員である右田勝(みぎた かつ)さんが、急死したという連絡が入りました。8日の夕方のことだそうです。この日、上関中央公民館で行われた祭りの司会をし元気だったそうですが、祭りが終わって自宅の在るところまで帰る途中で具合が悪くなったのか、誰かが見つけた時には、すでに息が無かったそうですから、車の中で亡くなったようです。心筋梗塞だろうと噂されています。72歳です。

 この人のことをなぜ書くのかについては、首をかしげる方も在ろうと思いますが、右田さんは上関町に原発建設問題が浮上して実質的に最初の町会議員選挙となった1986年の時からの議員です。今年の2月に行われた選挙でも立候補し、上位で8期目の当選を果たしています。

 上関町に原発建設問題が浮上したのは、1982年秋のことです。この年の2月にも町会議員選挙は行われていますが、この時には原発問題は明らかになっていないために、争点にもなりませんでした。争点としないための、中国電力などの作戦だったかもしれません。

 あれから32年、原発反対・推進を含めてあの時からの町会議員は、残り一人となりました。つくづくと時間の長さを感じています。「生き字引」という言葉が在りますが、まさにその通りの議員さんが亡くなったということになります。

 右田勝さん、今年の選挙ではポスターには「若者に夢を」という言葉を書いていました。原発を建設することによって「若者に夢を」と思ったのか知りませんが、「若者に夢を」については僕も同感です。

 3年前の中国電力株主総会で、社長に対して上関町の原発推進派にも反対派と言われている人にも、謝罪の気持ちを表明するようにと迫ったことがあります。この時社長は、謝罪の気持ちを表明しました。翌日の新聞には、そのことが大きな記事になりました。

 町民の中に親子関係を含めて、「推進」と「反対」という対立関係を生じさせた責任というのは誰が取るのでしょうか。原発建設に翻弄された上関町の人たち。

 東北電力が福島県に計画していた、浪江小高原発建設計画はその計画が浮上して40年以上が経過して、福島原発事故によって計画が断念されました。東北電力の誰からも、政府の誰からも「長い間、皆さんにご迷惑をかけました」という言葉は聞こえてきません。

 そこで、思い出したのはマハトマ・ガンジーが遺した「七つの社会的罪」という遺訓です。改めてこの言葉を書いておきたいと思います。
・理念なき政治
・労働なき富
・良心なき快楽
・人格なき知識
・道徳なき商業
・人間性なき科学
・献身なき崇拝

とうかさん

 「広島の夏の訪れを告げる」とか「この日から浴衣を着る」と言ったような表現でニュースなどが伝える、広島のとうかさん。何十年ぶりかに、4歳の孫に連れられて二人だけで行ってきました。とうかさんは、6月6日~8日まで行われる広島の祭りです。

 神社の通りには、たくさんの屋台というか出店が並びます。若い頃は、女友だちと行ったものですが、20歳台に行ったきりで今では行きたいとも思っていませんでした。

 孫にとっては初体験です。近くの電停で降りて、まずはかき氷を食べました。着色料を付けまくりという「いちご味」。そして、次はたい焼きを食べて、たこ焼きを土産物として買い、金魚すくいをしました。金魚すくいも、孫にとっては初体験です。2回チャレンジして5匹の金魚をゲットしました。

 帰りの電車に乗ったら、孫は昼寝を始めました。本来なら降りるべき駅も通り過ごして、宮島口駅まで乗っていました。こういうこともあるだろうと思って、1日フリー乗車券を使ったので助かりました。

 屋台といえば、友人のお父さんは遥か山陰の出雲市から、こういう祭りがあると、屋台でベッコウ飴を売っていました。友人も祭りの時には、お父さんを手伝っていました。少なくとも中国地方で行われる祭りには、お父さんはどこでも駆けつけていたようです。

 かき氷にしてもベッコウ飴にしても原価は安いものでしょうけど、交通費や、今はどうなっているのか知りませんが、「テキヤ」への支払いなどなどそれなりの費用が必要だったようです。宿泊は乗ってきた車だというのも聞いたような気がしています。

 持ってかえった金魚は、小さな水槽に入れました。今日現在まだ生きています。

 これで僕に対する孫からの評価はグッと高まりました。「今日は爺ちゃんと風呂に入る。眠る」とまで言われて、ドキッです。僕にとって至福の時は、11時過ぎから布団の中で推理小説を読みながら、自然眠りに着くというものですが、それを完全に侵害され、おまけに今日は朝から完全なる寝不足です。

 若い頃とうかさんの日を、楽しみにしていたことを思い出しました。そして今は亡き母親とすぐ上の姉のことを。

ヤンキー原発閉鎖

 6月1日、NHK BS1で「ヤンキー原発閉鎖 ~米・バーモント州 5年の記録~」というのを放映していました。たぶん、ご覧になった方も多いと思いますが、なかなか良い番組でした。

 アメリカ東北部のバーモント州のバーモント・ヤンキー原発は、福島第一原発と同じマークⅠといわれるもので、2012年で運転開始から40年を迎えていました。州知事には、原発閉鎖を主張する人が当選しました。知事はこの原発の閉鎖を決めしたが、米原子力規制委員会は20年の運転継続を認めました。また、この原発を持っているエンタジー社は、バーモント州に原発の運転を止めるような権限は持っていないとして、裁判に訴えていました。

 この動きから、運転継続によって仕事や「豊かさ」を求める住民と、福島原発事故はもうごめんだという人たちとの論争が強く展開されていきます。

 米原子力規制委員会が運転継続を認めたことに対して、反対住民の中にも少なからずの動揺が生じますが、身体をはっての反対運動が行われます。

 しかし、福島原発事故の教訓から米原子力規制委員会はヤンキー原発に対して、さまざまな「安全対策」を要求していきます。その負担が多き過ぎることによって、エンタジー社側からヤンキー原発の閉鎖を発表するということになります。

 あくまでも電力会社側の言い分は「原発を閉鎖したのは、他のエネルギー源(シェールガス)などとの競争に勝てない。コスト競争に負けた」のが理由で「原発そのものに危険性はない」と主張しています。どこの国でも往生際の悪いのは共通しているようです。

 この番組の中で、90歳を越えた老婦人が「ヒロシマに原爆が落とされたあの日から、私は核分裂を伴うすべてに反対してきた」と語る部分は感動的でした。

 このバーモント州ヤンキー原発の反対運動をしている人たちは、テレビで視る限りでは全員が白人でした。しかし、僕が先日アメリカに行き、ジョージア州アトランタ近くのボーグル原発近くの人たちは、多くが黒人の人でした。

 貧困と差別の中に生きるボーグル原発近くの人たちの状況の方が、もっと深刻ではあります。

 しかし、この「ヤンキー原発閉鎖 ~米・バーモント州 5年の記録」長期間、住民に密着したからこそ撮られた大変素晴らしいドキュメンタリーだと思います。

雨の中で慰霊碑めぐり

 東京都に在る私立中学校の修学旅行生徒たちに、広島平和公園内の慰霊碑めぐりガイド役をしました。この学校は、中高一貫校です。たまに、こういうガイド役を頼まれることがあるのですが、久しぶりの大役でした。

 まずは僕自身の自己紹介から始めました。そして原爆が落とされる前の、平和公園辺りの説明です。母親が1990年の朝日新聞に、この辺りのことについて、『「出店」の甘酒・かき氷 思い出いっぱいの元安橋 芸人さんのバイオリン』という投稿をしていました。これを基に賑やかだった原爆投下前の平和公園辺りの話しをしました。

 そして「原爆死没者慰霊碑」です。2013年の8月6日現在で、104冊28万6818柱の死没者名が記された過去帳が納められています。そしてもう一冊には、氏名不詳者多数と書いたものもあります。
 僕の両親、母親の両親、そして実姉の名前が記されています。碑文は「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」という言葉です。この碑文については、碑文論争と言われたこともありました。そしてちょっぴりと今の日本について、「安らかに眠れないような状況も在るよねえー」と一言。

 そして、「平和の火」から、「原爆の子の像」、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」、ここでは強制連行された朝鮮半島の人たちの話しです。続いて「原爆供養塔」、供養塔には名前の分からない遺骨が約7万柱あること、名前が判明していながらも引き取り手のない遺骨が現在816柱、最近はほとんど引き取り手が現れないことなどを話しました。

 続いて、「原爆ドーム」と「爆心地」。そしてこの度は「袋町小学校資料館」に向かいました。爆心地から460メートルのこの学校は、原爆が落とされた時には、多くの子どもたちは集団疎開をしていたために助かりましたが、残っていた約100名の児童や教師が亡くなりました。そして、ここは避難場所、救護所として、安否確認の伝言版としてチョークで書いた文字で知られています。そしてスイス人で原爆投下後に被爆者治療のためにやって来た、マルセル・ジュノー博士でも有名です。

 それから被爆建物でもある、旧日本銀行広島支店の前を通って同じく被爆建物と広島市レストハウスを案内して、被爆したアオギリの前で、アオギリに励まされて被爆証言活動をしていた沼田鈴子さんの話しをしました。

 少し休憩しようかと資料館近くの屋根のある所に入ったら、知り合いの英語での平和公園案内をしている方に会い、アメリカ人との話し合いになりました。「アメリカ人として原爆投下をどう思うか?」
「アメリカ人中での原爆感覚は?」
中学生も、シビアに世界を視ています。

 でも、ここで一番盛り上がったのは、同行していた担任の男先生だったように思います。後から分かったのですが英語の先生で、流暢な英語でオリバー・ストーンのことなどを質問していました。

 いつも思うのですが、僕の孫くらいの中学生でも新しい出会いは楽しいものですね。



広島は修学旅行シーズンです

 今、広島は修学旅行シーズンです。たくさんの貸切バスが平和公園内の駐車場に止まり、生徒たちの賑やかな声が聞こえてきます。主に小学生や中学生が多いですね。

 何年か前までは修学旅行生に話しをするとか、平和公園内を中心に存在している原爆に関係する碑めぐり案内などを手伝っていました。しかし何かと予定が重なって断ることが多かったのですが、職場に行くということから解放されてからは、また頼まれるようになりました。

 先日は岐阜県の中学生に、原発の話しをということで10人ばかりの生徒たちに話しました。150人くらいの生徒の内で、原発のこととリクエストした貴重な生徒たちでした。その中でも、特に女子生徒の方が熱心に勉強しているようでしたし質問も多く出ました。

 明後日は東京からの中学生に、平和公園内と袋町小学校資料館を案内することになっています。久しぶりということで、今日はにわか予習をしています。

 修学旅行で思い出すのは、90年6月に大阪府下にある中学校を案内したことです。広島平和公園で話しをした後、クラス毎のフィールドワークを頼まれました。その日の宿が山口県萩市だと聞いて、僕は上関町祝島を提案していました。ちょうど枇杷のシーズンでもありましたし、枇杷狩りをして祝島に住んでおられる原発で下請け労働を体験した人の話しを聞くという内容でした。

 この修学旅行については、山口、広島の両県の新聞に大きく報道されました。なぜか社会問題にもなりました。すぐに上関町の原発推進町議からは、その中学校を管轄している教育委員会に対して「中立を損なう」として抗議が行われたようです。新聞の投書欄にも声が寄せられたほどですから。

 この旅行、生徒や保護者からも好評で翌年も何とか行いましたが、これについては、山口新聞など一面トップで取り上げたほどです。朝日新聞は「天声人語」でも書いています。読みたい方は、91年5月28日付けのものですから、ぜひとも探してみて下さい。

 広島修学旅行では、平和公園の見学と被爆者の人から体験を聴くこと、そして学校によってはフィールドワークがセットで企画されるのがあります。例えば、米軍の岩国基地、毒ガス島と言われている大久野島、多くの被爆者が収容された似島などなどです。

 当時、岩国基地や似島などに行って非難されたり妨害されたという話しは聞いたことがありませんでしたが、上関町はなぜもこんなにも注目を浴び問題にされたのでしょうか。
 今、平和教育に対する行政の介入は強いものがあります。広島修学旅行も「教育の中立性から問題あり」とされるような時が来るかもしれません。

 修学旅行生にはヒロシマを知り、そこで感じたことを現在の状況の中で活かして欲しいものです。さて明後日、大人の前で話すよりも緊張しそうです。でも楽しみ!!

久しぶりに広島の歓楽街を歩きました

 東京へ行くという友人の壮行会が、日曜日の昼間ですが広島の歓楽街近くの場所であり、終わった後広島市内の歓楽街を一人で歩きました。流川、薬研堀という広島市最大の歓楽街です。僕にとっては、ここ数年は全く縁の無い場所になっていますが。

 若かりし頃は、まあ良く行ったものです。

 今日、この界隈をゆっくり歩きながら感じたことですが、次のような変化を感じました。
 一つには、小さなスタンドバーのような店が入っていた複合ビルが解体されて、その多くがコインパーキングになっていたことです。ほんと駐車場が増えていました。
 二つには、全国展開しているチェーン店の飲み屋が増えたことです。反対にいわゆる高級クラブのような店は、ほとんど在りませんでした。やはりこのご時世、個人経営では難しくなったのかも知れません。

 僕が若かりし頃に、友人、知人と通った店がありました。かなりの常連でした。友人と語るのも、美味しい手作り料理も、店で初めて会ったお客との会話も、おかみさんとの会話も、とても良い店でした。

 その店はいわゆる居酒屋ですが、広島で被爆したおかみさんと、姉妹と思われる女性、そして一人の若い女性が働いていました。 若い女性は親戚の娘だと聞いた記憶があります。
二人の姉妹と思われる女性は、いつも真っ白な割烹着を着て、僕のことを「キイちゃん」と呼んでいました。とても品のある方でした。一人の方の顔と手には、原爆のものと思われる火傷の痕が残っていました。

 ある新聞に、このおかみさんの事が記事になったのを覚えています。残念ながら、新聞の切り抜きは残っていません。

 その店が在った辺りをウロウロと歩きましたが、思っていた場所にその店はありませんでした。もう亡くなれたかも分かりませんし、生きておられても、店は止められたのでしょうね。当然です、もう35年くらい前の話しですから。

 店での会話は本当に楽しく、まるで母親との会話のようなものでした。最近、こんな店に出会わなくなりましたね。

 まあー来年は原爆投下から70年。おかみさんも、生きておられても80歳近い年齢でしょうから。もっと上かも知れないです。

 この店の名前をインターネットで検索したら、同じ広島市内ですが同名の店が、まったく違う場所にありました。今度、フラッと出かけてみようかと思っています。



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