Entries

若い農業の担い手が増えている!

 4人座りのJR電車の座席に座って、五日市駅から広島駅に向かっていました。時間にして15分です。前に座っている僕よりも3~4歳は多いと思われる男性の手元に、「全国農業新聞」がありました。チラッと見えた一面トップ記事の見出しは、「農山漁村の楽しみ伝わるか」というものでした。農山漁村の横には、「グリーンツーリズム」と片仮名が振ってありました。

 思い切って、その方に訊ねました。「全国農業新聞というのが、在るのですねえー」この話しから、会話が始まりました。
 この新聞は「全国農業会議所」というのが、発行しているものです。毎週金曜日に発行され、多くの農業従事者が読んでいるそうです。1か月600円、1年で7,200円です。

 この方は、岩国名産の「岩国れんこん」を作っている方でした。岩国れんこんは、普通のれんこんよりも穴が一つ多いというのでも有名です。

 「農業を行おうとする、若い後継者というのはどうですか」と僕は聞きました。
 「ここ3~4年前から、若い農業従事者が増える傾向にあるのですよ」とその方は答えられました。
 「えー、そうですか。そういうのって良い傾向ですねえー。どういう感じの人ですか。農業をやってみようとする人は?」
 「私がやっているれんこん栽培は、なかなか高齢者にはきつい作業です。親が歳を取ったから、家業を継ぐためにという人もいますし、Iターン者も。自分から手伝いたいと言ってくる人もいますし」とその方は話されました。
 「若い人たちが都会にあこがれて、都会で就職しても精神的にはきついことが多いし、賃金は安いし、生きがいを感じるようなことにはならないことが多いし、そういうことからでしょうか。だから、若い人が農業をやりたいという傾向になっているのでしょうか」

 この方も、若いころは岩国に多くある、石油コンビナートで働いた経験があるそうです。その時の初給料の明細を、お父さんに見せたら「こんなにたくさん貰うのか」と驚いたという記憶があるそうです。

 都会で働いた経験者が、田舎に帰って農業をやりたい。自分のプライドや人間性が無くさざるを得ない傾向が強い都会社会で、若い人たちが農業などに憧れを持つのは、分かるような気がしました。

 そういえば、上関町の祝島でも都会の若者たちが、祝島で漁業をやったりして意気揚々と生活をしているのを見かけます。小さな島で、彼らの眼は輝いていると思います。

 この全国農業新聞の山口版に、担い手たちの挑戦という囲み記事がありました。その中にトマト栽培に新規就農した、24歳の若者が紹介してありました。その中で、この若者は次のように話していました。
「色々な悩みやトラブルもあったが、多くの人に支えられて何とか就農できた。毎日トマトと話しをしながら、少しでも技術も磨き、高品質のトマトを生産することで皆さんに恩返しをしたい。この由宇トマトを食べて少しでも幸せな気持ちになってもらえると嬉しい」

 こういう傾向というのは、特に3・11以降強くなったのでしょうか。
 

スポンサーサイト

完全退職となりました。

 長い間、勤めていた会社の完全退職の日を迎えました。40年以上、この会社で働きましたから、初出勤の日を、昨日のようにというようにはなりませんが、振り返ってみれば、あっという間という感じもしています。

 僕が気持ち良く仕事ができたのは、たぶん僕のことを、生意気な奴だとか嫌な奴だと思われた方は多かったのではないかと思いますが、僕の方からこの人は憎たらしいとか、嫌いな人だと思う人が一人としておられなかったからだと思います。

 この度、完全に退職するにあたって思うことを2点話させていただきたいと思います。
 
 まず、一つには現場を知っている技術屋というのが少なくなったと思うことです。今、ほとんどの現場作業は協力会社というのが行っています。そのシステムを変えることは難しいにしても、現場を知らないと「指導する方が、指示される」という立場の逆転現象が現れるのではないかという危惧です。技術屋が、デスクでの作業だけというのは、よろしくないと思います。福島原発事故でも、東京電力がもっと現場に出るべきだと思います。

 二つ目は、私はこれまで企業社会において本来大切にされる順番として、一に人、二に物、三つ目に金というように思っていました。人とは、働いている人そのものです。物とは、作られる製品です。金とは、会社の利益です。この「人・物・金」という順番が「金・物・人」というように、会社の利益、儲けそのものが最優先され、人が軽視されていることの心配です。特に非正規という人の「人」としての扱いが軽く見られていることは、心配です。

 これからやることですが、先日広島にも大きな地震がありましたが、わが家の僕の仕事部屋は数ヶ月前から、震度6に直撃されて散乱しています。究極の後片付けをして整理しなければならないと思っています。たぶん、最低でも1週間は要すると思います。今世紀最大のイノベーションだと覚悟しています。

 その後は、頭の切り替えを含めて、日本を脱出する予定です。いつ帰国するか決めていませんし、もう帰ってこない方が社会のためには良いという声も聞こえてきますが、6月になると、「総会屋」としての仕事も待っていますし、その準備もありますから、適当な時には戻ってくることを許してもらいたいと考えています。

 「笑っていいとも」も32年続いて、今月中には最終回を迎えるそうです。
1982年10月から始まり、32年間続いたそうです。32年間という長さが、話題になっています。最近ではほとんど観ない番組ですが、若かりし頃はよく観ていました。

 「1982年10月頃」、「32年間」本当に昔であり、その期間は長い月日だと思います。この二つの数字を見て思うのは、上関原発の建設計画が浮上した時であり、それからの時間です。当然ですが、あの時生まれた赤ちゃんは32歳の大人です。僕も、33歳という若者でした。

 「笑っていいとも」は終わりを迎えますが、残念ながら上関原発建設計画は続いています。本当にムカツキます。やはり32年間は長いです。お笑いテレビ番組と、上関原発建設計画が持ち上がってからの月日を比べるのは不謹慎かもしれないでしょうけど、中国電力も「笑っていいとも」に倣って、上関原発計画を「白紙撤回」されてはどうでしょうか。

 NHKの連続テレビ小説ではありませんが、仕事を通じてたくさんのことを学ばさせて頂き、多くのことを経験させていただきました。ほんとうに「ごちそうさん」という気持ちです。

 職場のみなさん、お元気で! 街の中で出会っても、無視せずに声をかけていただきますようにお願いします。

完全退職の日を前にして母を想う

 3月31日付けで、職場が完全退職になります。この職場では60歳でいったん定年退職し、65歳までは契約社員として仕事が出来ますが、65歳になった年度末で完全退職となります。

 その日が来週の月曜日という日になり、しみじみと母親のことを思い出しています。僕が4歳の時、母は夫を亡くしました。母40歳の時です。それから、3人の子どもを育てました。僕が子どもの頃というだけでなく、今日まで母は大きな大きな存在です。

 母は、働き続けた後、60歳で定年退職をしました。僕は、その年齢よりも5年も長く仕事をしていたことになります。今、この職場を去るに当って、職場の中に在る「好き、嫌い」「悪口」「無視」「いじめ」などなど、僕が子どもの頃に想う大人社会では、そういうことには縁のない社会だと思っていました。それが実は大きく違うということを知ってしまい、母の時代にもそんなことが在ったのだろうか、という思いを持ったのです。当然有っただろうと思います。思うというより、在るのが当たり前でしょう。

 母は、40歳で未亡人になりました。社会的な鍛えられ方が少ないまま、子育て、生活、社会とのつながり、など荒海の中に投げ込まれたのです。広島の原子爆弾受け健康状態も悪い中、生きるための力を求められました。その中でも、一人息子の僕を想う気持ちは相当に強かったでしょう。

 その頃のわが家は、親戚が手配してくれた借家で、あの頃には見かけることはあったでしょうけど、ワラ屋根の決して良い家では在りませんでした。雨漏りはするし、座は抜けることがあるような物でした。七輪で火を起こし、ご飯はカマドで作り、風呂はマキを使ったゴエモン風呂です。

 そんな中で母は、朝早く仕事に行き、夜遅く帰宅していました。決して裕福ではありませんでした。裕福であるとか無いとかいう前に、そういうことを母は喋りませんでした。「知らない」というのが正直なところです。
 しかし、クリスマスにはサンタをしてくれ、誕生日にはお祝いをしてくれました。学校の参観日には、教室の後ろから見ていました。どういうように言って、休暇を取ったのでしょうか。まったく知らない部分です。

 今、そういう母の苦労が分かっていたら、母に対する接し方というか、気持ちを分かってあげる努力ができたと思いますが、今やまさに「後の祭り」です。その母も1998年7月、85歳で亡くなりました。今思えば、何とか大人同士としての会話をすれば好かったのにと思う限りです。母と僕は、いつまで経っても親と子という、怒られた時には怖い存在でしたが、大きな目線で何でも受け入れてくれる「おとな」であり、僕は何でも受け入れて欲しい「こども」だったと思います。

 僕ら世代の親たちは、そのほとんどが亡くなったか、認知などで病院や施設に入ったままという人が多くなりました。「親孝行したい時には親は無し」という言葉がありますが、まさに的を得た言葉だと思います。

 母ともっと、ズブズブとした大人社会の会話がしたかった。聞きたかった。今、僕は子どもや孫たちにどんな姿を見せれば良いのでしょうか。親の背中を見ながら、子どもたちは成長すると言いますが、第二の人生とも言われる、定年後の暮らしの中で、これから世代の人に伝えるものということを、完全退職を目の前にして考えています。

国民春闘と言っていた頃

 僕が、労働組合の分会役員をしていた頃、春闘は国民春闘と名付けられていました。言ってることと本音は別にして、自らの賃上げやボーナス要求だけでなく、国民生活全体の改善のために、年金や老後保障の要求を掲げて闘われたと思います。労働組合が社会的存在だという態度を、表すためにです。

 だから、賃上げ交渉など会社内の要求が妥結しても、闘争体制は継続して、対政府交渉などを行っていました。なかなか、その要求実現には至りませんでしたが、国民の支持を受けるからこそ、労働組合も存在できるのだという姿勢だった思います。

 もっとさかのぼれば、ベトナム戦争に反対するストライキが行われたこともあったと思います。僕が社会人になる前のことだと思いますが。

 今年の春闘では、久しぶりにベースアップ要求が行われました。マスコミは7年ぶりのベースアップ要求だとも書きました。そしてトヨタなどの業績好調の企業では、「満額回答」という言葉も出てきました。

 しかしベースアップ要求をし、それが実現できたのは一部の大手企業だし、それも労働組合に加盟している(加盟できる)人たちだけが、その恩恵を受けることになったと思います。

 今年の春闘のことを「官制春闘」とも言われます。消費税の値上げと、デフレからの脱却と、物価上昇を政策とした安部政権は、「賃上げをするように」との要請を、経済界に行いました。政府の言うことには逆らえない大企業は、「官・労・使」が一緒になって、「パフォーマンス春闘」とも「春闘劇場」とも形容されるものを演じました。

 この4月から消費税が上がります。僕は、今年中の物価は消費税と便乗値上げなどによって4%の物価上昇があるものと予想しています。100円だったら4円ですが、1万円だったら400円、10万円だったら4000円です。この4%という数字は、まさに狂乱物価とも言えるほどの上昇です。

 これは当然予想されたのですが、労働組合の要求は1%でした。3000円とかいう数字でした。値下げされながらも、その要求を「勝ち取って」要求実現が達成したと勝利宣言を行う浅はかさと言うか、馬鹿さというか、人の良さについて、その人たちの頭の中身を疑います。

 それも、一部の大手企業の、それも正社員が中心です。今や、40%になったと言われる非正規の人たちは、まったくの対象外におかれています。逆に企業は、正社員に対して賃上げをした分を取り戻すために、非正規の人たちに対して、賃下げ圧力を強めることも予想されます。

 「国民春闘」という言葉は、過去の遺物なのでしょうか。縄文土器のようなものなのでしょうか。

 原発の再稼動反対、非正規雇用の人たちの賃上げを要求して、ストライキが行われるというようなことは、夢の夢なのでしょうか。労働組合が、社会的な存在として国民全体から尊敬に値する存在になるためには、これぐらいのことを行っても良いのではないかと思うのですが。

 「スト権スト」というのがありました。当時の国鉄や電電公社という、ストライキ権が認められていなかった公共企業体の組合が、1975年11月25日から12月3日までの9日間のストを行いました。
スト権を奪い返すことなく、ストライキは収拾されましたが、ストライキが終了して、いざ国鉄の列車を動かそうとした時、9日間の間に線路のレールに錆が出てきて、すぐには列車が動かせなかったというのが、とても印象的なことです。



拝啓 山口県知事村岡嗣政様

 拝啓、山口県知事村岡嗣政様
 村岡知事におかれましては、県民生活の健康、生命と財産を守るためご尽力されておられることに対し、心からの敬意を表します。全国の知事の中で、二番目に若いということで、意欲満々だと思います。

 私は広島県内に住むものですが、中国電力が山口県上関町に建設を計画している、上関原発の建設を止めるために活動している者です。

 山口県とされましては、中国電力から申請されている上関原発建設計画地の埋立て免許の延長申請について、来月には結論を出されるものと思います。
 振り返れば、昨年3月4日に開かれた山口県議会において、代表質問に答える形で、当時の山本繁太郎知事は、「国のエネルギー政策において、上関原発の位置付けが明確でない」などという理由を持って、同免許の延長についての判断を1年間先送りすることを明らかにされました。
 現在、ボールは中国電力に投げられている状況にあります。

 昨年のこの時期から今日までの間、政府においては「エネルギー基本計画」について議論がなされ、先日その政府案が決まりました。閣議決定を経て、正式に決定されようとしています。「エネルギー基本計画」の内容については、賛否両論があるところですが、その中において新設原発については触れていません。また安倍晋三首相も、年頭会見や国会の場などにおいて「現時点において、新設原発については、あり得ない」と明言しています。

 私は、この「エネルギー基本計画」の決定を持って、国のエネルギー政策における上関原発の位置付けが、明確に否定されたと理解しています。すなわちノーです。

 村岡知事におかれましても、先日「建設予定地の土地利用計画が不透明なら延長は認められない」とも発言されました。

 そういう状況の中で、上関原発建設予定地の埋立て免許の延長許可は、まったくあり得ないものと考えます。

 村岡知事さんにおかれましては、32年間におよび上関町民に亀裂と分断を与えてきた状況を一日も早く解消する方向に向かわせるために、上関原発建設計画地における、中国電力からの公有水面埋立ての免許の延長申請を認めず、失効させられることを、心からお願いする次第です。

 健康に留意されまして、ますますご活躍されることを願っております。
敬具

ある精肉店のはなし

 纐纈(はなぶさ)あや監督作品第二弾映画、「ある精肉店のはなし」を広島の小さな映画館へ観にいきました。纐纈あやさんの前作品は、上関町の祝島を扱った『祝の島(ほうりのしま)』という作品で、その映画の時に知り合ったと思います。

 と言うより、彼女の師匠とも言える本橋成一監督作品で『アレクセイの泉』というチェルノブイリ原発事故を扱った作品がありますが、この作品で彼女の名前を聞いていました。

 「ある精肉店のはなし」、なんといっても大きく育てた牛の脳天の大きな斧のようなものを命中させて、一発で「殺す」というシーンが強力でした。魚では「シメル」と言うようですが、牛では「ワル」というそうです。頭の上から吹き出る血、そしてすぐさま血ヌキ、大量の血が出る中、手際よく解体作業に入ります。これを屠畜解体というそうですが、この仕事を家業として7代続けている肉屋さんの話しです。

 肉は様々な部位に分別され、牛の皮膚の部分は丹念になめされて、太鼓の叩かれる部分へと姿を変えます。それが、この地方で有名なだんじり太鼓へと姿を変えていくのでした。

 この家族の歩みは、被差別部落の人たちの仕事としてやってきたものでした。差別された歴史、その中で地域の人たちと一緒になって部落解放運動に参加していく主人公家族の歴史もありました。

 今、僕たちは肉と言えば、スーパーなどで売られている、パックに入った、赤身のきれいな肉、ラーメンの浮かぶチャーシュー、おでんのすじ肉を思い浮かべると思います。しかし、丹精込めらて飼育された牛、屠畜解体という作業、天寿を全うすることなく、いのちが奪われて人のためになること。「生きる」という意味を改めて感じさせられました。

 この肉屋さんが代々使用してきた屠畜場は、2012年3月に102年の歴史に幕を下ろしたそうです。

 今の肉が霜降りになったり、ホルモンやタンなどの部位として店頭に出る過程を僕は知りません。肉屋さんも部位が仕入先から送られてきて店に出すのだと思います。どのようにして「ワル」のかも知りません。肉屋さん自身も、知らない部分かも知れません。

 この映画を観ていて、全然関係無いかも知れませんが、次のようなことを考えてしまいました。

 私たちが生きる上で必ず出す、排泄物の処理。亡くなった人に対する、弔いの儀式。この映画に出てきた肉の出来る過程。などなど、自分ですべき、嫌、この前まで皆が関わってきたものが、ブラック ボックスとして見ないように関わらないようにされていることへの反省でした。だから、私たちは大切にしなければならないものを、忘れてしまったのではないでしょうか。

 また、こんなことも思いました。僕も技術屋のはしくれのような仕事をしてきましたが、技術屋という人が現場を知らないということです。2次、3次というように仕事が下ろされていき、現場を見なくなったということです。東京電力の福島原発事故に対する対応にも似たところがあると
この状態はとても良く無いと思います。

 子どもたちや孫たちにも、僕たちの「生」のために、授けてくれた物たち、それは牛たちだけでなく、この自然、宇宙、そういったものたちに心を馳せていくことではないでしょうか。人にも誰にも優しくなれる気持ちにさせてくれた、ドキュメント映画だとも思いました。

アメリカと一緒になってロシアに制裁をすること

 ウクライナ事件に端を発して、ロシアのプーチン大統領がクリミア自治共和国をロシア連邦に編入させることに対し、安部首相もアメリカと歩調を合わせてロシアへの制裁を加えようとしています。

  まず、ロシアがクリミアを編入しようとする行為には反対です。だからと言って、ロシアへの制裁にも反対です。この題を、EUやアメリカの権力争いの道具にされるべきでは無いと思います。ウクライナのことは、ウクライナの国民で決めるべきだと思います。それを基本的な立ち位置として解決策を考えなくてはならないでしょう。

 それはそれとして、アメリカと同調して、簡単にロシアへの制裁を加えるということを、アベシンは本気で考え、これから起こるかも知れない出来事をしっかり考え、検討しているのかが見えてきません。アメリカとは違う日本の国状があると思うのです。

 大きな問題の一つはエネルギーだと思います。今、日本は天然ガスも石炭もロシアに大きく依存しようとしています。化石燃料の中東離れです。天然ガスのパイプラインはウラジオストクまで延びていて、大規模な海運会社の株価は吹っ飛ぶとまで言われているのですから。そして、いわゆる北方領土問題です。

 アメリカもすぐさま、ロシアへの軍事力行使という手段は取らないと思いますし、そうなってしまえば、まさに泥沼へ向かうことは間違いありません。しかし、その予想がまったく無いとは思えません。アメリカとロシアが緊張状態になったら、アメリカの戦闘機などの軍事手段は当然ですが、日本各地に在る米軍基地から出て行くことになると思います。そうなれば、日本もロシアの標的とされます。そういう状態は十分に予想されるのに、安部首相の国会での、単純にロシア制裁のレベルを上げるという発言を聞いていたら、ますます嘆かわしくなってきます。

 朝のテレビを観ていたら、電力会社の人やサラリーマンがインタビューに制裁を強めることへの心配の声を出していました。普通、こういうインタビューでは、政府のやろうとしていることを支持する意見が多いものですが、少しホッとした気持ちにもなりました。

 アメリカは、自らの国にシェールガスが発見されたために、燃料を自らの国で自立することが可能になっています。しかし、日本はそうはいかないのですから。

 チェルノブイリ原発事故を起こしたウクライナ、少しでもウクライナに思いを寄せる者として、とても気になる状態です。ウクライナ首都キエフ市と京都市とは姉妹都市縁組を結んでいます。門川大作京都市長でも、仲介に入って努力されたらどうでしょうか。

 ところで、今日3月20日は地下鉄サリン事件から19年ですね。あの日、僕は39度近い高熱の風邪で、家の中で苦しんでいました。嘘のような話しですが、僕はあの時以来、風邪というものに縁の無い、体質になってしまいました。

山本繁太郎前山口県知事死去

 15日土曜日、東京日比谷野外音楽堂で「フクシマを忘れない!さようなら原発3・15脱原発集会」が開催されている時です。携帯電話に「山本繁太郎前山口県知事が亡くなった」というメールが飛び込みました。それから相次いで、山口県内のマスコミ関係者からも3~4通の同様メールが入りました。

 山本繁太郎さん、享年65歳です。死因は肺がんです。昨年10月30日から入院していましたが、入院先や病名が明らかにされたのも、亡くなってからということになりました。聞くところによると、10日間くらい前から、こん睡状態だったそうです。

 僕は、この人に特別の思いを持っていました。僕と同年齢だということが一番大きな理由ですが。自民党に上手に利用されて、その犠牲になった人だという思いです。かつて衆議院選挙の山口2区から立候補し、2度とも落選し「3度目の正直」を目指して選挙区内で地道に活動していたようですが、結果的に二井関成さんの後継として県知事に立候補させられ、一昨年7月に行われた知事選挙で当選を果たしました。

 「安部の犬」とも「安部の足下(そっか)」とも言われていました。

 選挙中から体調が優れず、選挙期間中も1日休んでいますし、「バンザイ」をした後、再び入院、8月下旬の初登庁日は病院から登庁しました。

 そして、上関原発の埋め立て免許の延長問題では、行政責任者としての役割を自ら放棄し、結論の先送りをしました。僕は、ある雑誌に「アベシン政権に翻弄されている上関原発」という一文を書き、山本さんに送りました。相当に厳しく山本繁太郎知事を批判していたので、僕の存在は意識されていたと思います。
 優柔不断な山本繁太郎知事を県議会の傍聴席から、大きな声で野次りました。「公約違反!」とかそんな野次ではなく、「体調が悪いのなら、ゆっくり休んでください」「健康第一!」という声です。議会終了後、議会通路でバッタリ会った、山本さんは僕の顔を睨みつけました。目玉の大きなのが特徴の人ですが、お疲れという顔でした。

 どうせ亡くなるのなら、「上関原発の埋め立て免許は失効する。計画も白紙撤回」と言明していたら、どれだけスッキリして、もう少しは長生きできたのではないかと思います。

 山口県庁内では、山本派、二井派というような対立が続いています。山本繁太郎さんが亡くなった後の県庁内の人間関係も興味一杯です。その鍵というか、ポイントは村岡新知事がどういう春の人事を行うかです。僕は、中央から来ている官僚で、ある程度の期間の人は東京へ返すと思いますが、1年くらいの人を交代させるような、「見え見え人事」はしないと見ています。まだ、新人ですから。

 一方的な想いですが、良い意味でも悪い意味でも、とても興味と関心を持っていた人ですから、大げさですが身内の死にも似たような気持ちに朝からさせられていました。

 今日は葬儀、今は、午後9時。もう白骨になって骨壷の中に納まっておられると思います。僕の書斎にベタベタと貼っている張り紙の中に、立花隆さんの「人生における最大の禍根は、自分の人生を生きたいように生きなかったときに生じる」という文字がありました。

 心から、「ご冥福をお祈りします」という気持ちです。

新宿西口地下広場

 新宿西口地下広場、1960年代の後半、学生運動が盛んな頃、その場所で学生や若者が集まりフォークソングが唄われました。

 15日、所用で上京し、午後6時西口交番前で友人と待ち合わせをしていました。そこへ、「若者よ恋人を守れますか!」「東電は事故の責任を取れ!」「規制委は促進委か!! 汚染水を止め、トイレの場所を決めるのが先でしょう」「原発を売り 武器を売り 戦争する国にする安部政権は狂っている!」「原発が生みだすのは ひとにぎりの大金持ちと無数のヒバクシャ 原発をもう止めよう」「沖縄は限界!」「沖縄竹富町がんばって」と書いたゼッケンを付けたり、紙に書いた小さなメッセージを持った2人一組で8組くらいの人たちが現れました。 
まったくの無言です。でも意気揚々とした感じでした。「えっー」と思って同年齢くらいの女性に声をかけました。

 まず僕の自己紹介をして、「えーすごいですねえー。写真を撮らせてもらってよろしいですか」
「良いですよ」
という感じから話し込みました。
「JRとか警察は文句を言ったり、嫌がらせをしないのですか」と訊ねました。
「声を出したりしない限り、何も言わないですよ」
「何時からやっているのですか?」
「イラク戦争が始まった時からですから、もう10年以上ですね。今は沖縄の問題や原発の事を訴えています」とのことです。

 毎週土曜日に、午後5時から1時間は、新宿駅西口前の歩道で、午後6時から7時までは西口交番前付近でやっているそうです。まさに、非暴力による訴えであり主張です。僕は、8組の人全員に声をかけ話し込み激励しました。一人の方は、僕のことを「知っていますよ」と言ってくれました。

 福島原発事故があったにも関わらず、原発の再稼働がされようとしている今の状況をとても怒っていました。僕もまったくの同感です。

 同年齢の女性からチラシをもらいました。それには、ギターを弾きながら歌っている若者の写真が載ったチラシでした。「1969 新宿西口地下広場」 と書いてありました。写真の中の若い可愛い女性を指さして「これ私なのですよ」と彼女は笑顔で話しました。

そのチラシには、岡林信康の「友よ」の歌詞が書いてありました。
友よ 夜明け前の闇の中で
友よ 戦いの炎をもやせ
夜明けは近い・・・

 「1969新宿西口地下広場」という本+DVDを、この4月に売り出すそうです。セットで3200円+税金です。
チラシには、「映画『地下広場』から読み解く、1969年という時代。新宿西口地下広場にフォークゲリラがいた―」とも。

 この歌、先日山口市で開催された「3.8上関原発を建てさせない山口県民大集会」で高石友也さんが唄っていたと思います。

 「真似しの省ちゃん」です。広島でもやれたならと思いました。この光景を観ることができただけでも、上京した甲斐があったように思います。

 そして若かりし頃の青春時代を思い出しました。まだ、その頃と気持ちは変わっていないつもりですが!?。


本物、偽物を思う

 「聴覚障害がある被爆二世の音楽家」として脚光を浴びていた、佐村河内さん。「リケジョ」ブームを起こし、次のノーベル賞間違い無しとまで言われたSTAP細胞研究で理化学研究所の小保方さん。あれだけ「有名」になった二人がマスコミを中心に総攻撃を受けています。

 これはこれで問題在りでしょうけど、あれだけ持ち上げていたマスコミの責任は無いのでしょうか。インターネットニュースを見ていると、「小保方研究員の正体」とまで書いたのがありました。マスコミのまさに自分の責任は棚に上げてという感じを受けざるをえません。自分の責任は問わずに、相手に対して攻撃を加えるという現在の「非常識」を思います。両方の「事件」とも、二人が「有名」になった時点で、そのことについて検証してみるということは考えなかったのでしょうか。僕はこの二人に対するというよりも、世間の声やマスコミに対して、とても不愉快な気持ちを持ちます。
娘が「お父さん恰好良い、ハンサム!」と言うので「何を今さら」と答えたら、「これは佐村河内ごっこ!」と言って笑っていました。嘘を言って遊ぶ「ごっこ」だそうです。

 食品の輸入先のごまかし、普通のエビを高級エビとしてレストランに出していたホテル、などなどで世の中は偽物ブームです。本物が見抜けないのなら、これで商売をしていた業者の勝ちとまで僕は思います。もちろん、賞味期限の改ざんなどは、許されることではありませんが。

 究極のごまかしは、収束もしていない福島原発事故を「収束した」と言った人、「福島原発事故の汚染水は完全に しています」と言ってオリンピックを誘致した首相、「上関原発の埋立て免許の延長申請は認めないなど、言ったことは絶対にありません」と怒鳴り声をあげて否定した山口県の前知事、こういうことこそ、しつこくその責任を追及すべきではないでしょうか。

 反原発運動に関わっていて思うことですが、特に地元の運動を潰すための最大のテクニックは、デマやみんなが「えー」と思うような嘘の情報を意図的に流すことだというのが、長年の経験から得た実感です。単純にありもしない人のスキャンダルを流す、反原発は「アカ」という情報。人生60年以上もしていると、多少のスキャンダルくらい在るものですよ。そんなこと言われたら、僕なんかやってられないよ。それが運動の本命と関係ないのなら、そっちにばっかり気を取られないことですね。
 
 なかなかというか油断していたら、とても本物が読みにくい時世だと思います。本物を判断するにはどうすべきか。僕は、まず自分の意見を持つことだと思います。できるものなら現場を見て、なぜだろうという疑問を持ち、なぜこういう現象が起こったのだろうか、起こしたのだろうか、という自分としての考える力を持つことではないでしょうか。
 「売ってナンボ」の資本主義社会ですから、少々の誇大広告やごまかしは当然あるものだと思って、自分の考えで判断する能力を養うべきではないでしょうか。

 「佐村河内さん、小保方さん、運が悪かったねえー。広島に来られるようでしたら、美味しいお好み焼でもご馳走しますよ」そうだ佐村河内さんは広島出だった。

 この文章を書き終えた時、山本繁太郎前山口県知事が亡くなったという連絡が入りました。享年65歳、僕と同年齢ということが、いやはやという感じです。


3周年追悼式での発言を聞いて

 震災3周年の政府主催追悼式の様子をテレビで観ていました。最大の関心事は、安部首相と天皇が原発事故についてどのように話すかでした。

 菅官房長官の開会の辞に続いて1分間の黙祷、そして安部首相が式辞に立ちました。原発については、次のように述べました。「原発事故のためにいまだ古里に戻れない方々も数多くおられます」これだけでした。字数にして28字です。

 これに続いて天皇の「お言葉」となり、彼は、次のように発言しました。
 「さらにこの震災により、原子力発電所の事故が発生し、放射能汚染地域の立ち入りが制限されているため、多くの人々が住み慣れた地域から離れることを余儀なくされています。いまだに自らの家に帰還する見通しが立っていない人々が多いことを思うと心が痛みます」と述べました。160字です。
 そして、天皇は最後近くの部分で「安全な国土を築くことを目指して進んでいくことを期待しています」とも述べました。この部分は、37字あります。「安全な国土」の主語部分は「防災に対する心掛けを育み」ですから、原発に直接触れているものではありませんが、「安全な国土」に深い想いを受け取りました。

 アベシンの式辞は、彼の性格がそのまま出たような、「根性で何とか乗り越えろ」的で感情訴え形でした。しかし彼は「強靭な」という言葉が好きですね。「うまずたゆまず、災害に強い強靭な国づくりを進めていくことを」とした。この「強靭な」は、国会答弁などでもたびたび聞くことばですね。やっぱりアベシンです。

 天皇の発言も、政府からチェックが入っているのは当然でしょうし、「原子力発電に頼らない、エネルギー政策を追求されるように願います」だの発言したら、たいへんなことになるでしょうけど、アベシンより5倍以上の字数で原発事故に触れていたことには、僕は単純に評価しました。

 岩手、宮城、福島の被災3県の遺族代表も発言していますが、原発にふれたのは、福島代表の女性だけでした。父親を亡くした彼女は「原子力発電所事故による避難命令のため、大切な家族を残して避難しなければならなかった悔しさは忘れられません。『捜しに行けるなら、自分たちで捜したい』。そんな気持ちで避難所生活を送っていました」と述べています。

 この発言を、早期帰還を求めるものと観るか、原発事故に対する悔しさとみるかは考えるところですけど。

 震災から3年。「へそ曲がり」な僕は、いろいろな思いで追悼式の発言を聴いていました。

遊び政治をやるな。

 「月刊 マスコミ市民」の3月号に、ルポライターの鎌田慧さんが【特集】東京都知事選挙 “脱原発派敗北”から何を学ぶか 原発を争点にできなかった都知事選挙の中で、とても興味深いことを書いておられました。

 鎌田さんは、脱原発候補の統一を訴え続けてきた人です。細川さんを応援していました。興味深いことは、この文章の中の、「危急存亡の歴史がない日本では、統一はできない?」の部分です。

=中国の歴史における国共合作もそうですが、ドイツやイタリアでは「統一戦線」の経験があります。「反ファッショ統一戦線」といえば、ヒトラーに対する人民の抵抗闘争が有名ですが、日本では統一戦線は「純粋性の裏切り」みたいな形で考えられることが多いのです。その理由は、日本人の存在自体が脅されるような、極端に追いつめられた危機的な歴史がなかったからだと思います。=
中略
=大衆の抵抗闘争をつくれませんでした。民族や国民が危急存亡の時期になるようなことがなかった日本においては、お互いに政治的な妥協をしながら手を結んで一つの目標に向かって戦うことは、いかにも欺瞞的で嘘で妥協的で日和見的だ、といった批判が現れるのだと思います。=
中略
=共産党は、細川さんより3万票くらい多かったので「勝った!勝った!」と言っているようですが、それはいかにも度量が狭い。=
中略
=私は、素直に負けたという認識と反省が必要だと思います。=
で、この部分を閉じています。

 これを読んでいて、僕もまったく同感でした。特に、「極端に追いつめられた危機的な歴史がなかった」という部分は、大きくうなずきました。
 いわゆる「左翼」というものの、「本気度」です。本気度が無い、嫌、無いことはないとしても薄いということです。
だから小さな違いで、仲間割れをしたり分裂したりすること。もちろん、こういう運動の中での意見の違いというのは、世界中どこにもあることでしょうけど、「小異を認めて大道に着く」ことが必要なのではないでしょうか。運動は遊びではないはずです。もちろん一部インテリと言うか、暇のある連中の、ゲームでもありません。

 宇都宮さんが、細川さんよりも票が多かったと浮かれるよりも、田母神さんが61万票を超える数を得たこと。新聞社の出口調査では、20歳代では、舛添さんが36%で一位で、田母神さんが二番目で24%を獲得したことこそを、考えるべきだと思うのですが。

 選挙が終わって、「自民党の得票率は、過半数を割っていた」とか、「投票率がどうだったから」とか、そんなことを言って負けた言い訳をグダグダ言ってる政治家を見ていると、自己満足で政治やってんのかー。アホと違うかーと叫びたくなる。

2011年3月7日

 2011年3月7日、前日の6日に京都市で反原発新聞の編集・経営委員会があり、その日の夜遅く茨城県の水戸市のビジネスホテルに着いていました。
 1990年9月30日に発生した東海村JCO事故の現場を見て、事故によりPTSDにかかってJCOを訴えられた方の話しを伺ったりして2日間を過ごし、9日から11日までは福島に行き、福島原発で働いた経験のある方にも、話しを聴くことにしていました。
 またJCO事故で亡くなれた方のお母さんにも電話をして、お会いしたい旨を伝えたのですが、お母さんは「許してください。話しができません。申しわけありません」と涙ながらに話されたので、それは諦めていました。

 水戸はすごい寒さだった記憶は鮮明です。雪のようなミゾレが降り、なんとも冷えていました。

 福島原発で働いた方は、その方の連れ合いが亡くなれた直後だったので、四十九日が終わるまではと遠慮して福島行きは中止しました。9日は原発事故で労災申請をされた方の問題で政府交渉を行い、この日の最終に近い新幹線で広島に帰りました。

 10日は通常通り職場に出勤し、翌金曜日は11日でした。金曜日は友人と「夕食でも」という約束をしていました。午後2時半頃、休憩室で休んでいた時、運命の2時46分を迎えたのです。福島原発のことが気になり、その日の夕食の約束はキャンセルにして帰宅しました。その後はテレビとインターネットに釘付けになりました。

 最初の希望通り9日に福島へ行き、原発で働いていた方の話しを聞く予定通りだったら、11日の午後に帰広としていたと思います。そうすれば当然のことですが、あの震災を経験したことになります。もしかしたら、死んでいたかもしれません。死ななかったとしても、すんなりと広島に帰ることは出来ないことは間違いなかったでしょう。確実に!

 どちらにしても、60数年の人生の中では最大の経験をしていたことになります。言葉は悪いのですが、「貴重」な体験だったとも思います。

 あれから3年。運命ということを思わざるを得ません。広島に投下された原子爆弾も、あの朝病気をして広島市内に行くのを中止したので助かった人、その逆の人もあったと思います。広島市で被爆し、避難のため長崎市に行き、2度も原子爆弾を体験した人もいます。

 福島原発事故などまるで無かったかのように、政府や電力会社は原発回帰の方向に進もうと思っています。嫌、思っているようなポーズをしています。今日、アトランタに住む友人と電話で話しました。この友人は、「どうも背後にアメリカがいるような気がしてならない」と話していました。アメリカの原子力発電における世界戦略のために、日本は原子力発電を止めてもらったら困るのか。アメリカはシェール革命といわれるような、新たなエネルギーの方向に歩み出しているのに?!

漁業補償金配分、組合員集会

 3月4日、祝島で上関原発の漁業補償金配分集会が強行されると聞いて、祝島に行きました。柳井港、15時45分の定期船に乗りました。山口県漁協の幹部らが、この定期船に乗ってくると聞いたからです。山口県漁協の幹部らは、上関町の上関から乗船してきました。

 僕は、携帯メールでその状況を祝島に連絡をしていました。5人の幹部らは、船の中でも終始無言。僕の知人が、丁寧に声をかけましたが、まったくの無反応でした。船が祝島に近づくと、一人が立ち上がって港の方を見ました。その後の攻防は新聞やテレビニュースなどで報道されていますから、ここでは省略しますが、港に押しかけた人たちの抗議行動により補償金配分集会は中止されました。

 この攻防を見るのは始めてですが、いつも監視している友人の話によると、原発補償金を受け取ることを明言している組合員らは、これまではこの攻防の様子を遠巻きに見守っているという状況だったそうですが、この度は「通せー通せー」と声を上げていました。「通せー」とは、山口県漁協の幹部らのことです。昔から知っている祝島支店の運営委員と目が合ったので、「こんにちは。ごぶさたです」と自然にあいさつ声をかけました。そしたら、その人から「私は原発に反対だけど、補償金の話しは別ですから」と、聞きもしないことに答えてきました。

 人口448人の祝島です。都会と違って、「隣りは何をする人ぞ」では生活できないところです。食べること、出すこと、亡くなるときも含めて共同体生活です。道を歩くとあいさつをしない訳にはいきません。明確な原発推進者とは違いますから。

 このお金を、島民の人たちが納得して受け取ることができないものでしょうか。32年も迷惑をかけたのですから、迷惑料、慰謝料。もう上関原発は建たないのだから、手切れ金。漁業補償金では、どうしても受け取れないと思います。

 そのためには、まずなんと言ってもやらなければならないことは、村岡嗣政山口県知事埋め立て免許を失効させることです。もちろん、原発計画の白紙撤回が一番ですけど。そして、漁業補償金は漁業権者だけに限りますが、迷惑料、慰謝料であれば、その受け取りは祝島の島民全員になると思います。

 山口県や中国電力は、この補償金問題は山口県漁協と祝島支店の組合員との間の問題と知らん顔をしていますが、それは性質の悪い「逃げ」です。山口県や中国電力が、謝罪の気持ちを持って、解決に向けて決断すべきだと思います。

 マスコミも、もっと踏み込んで「あるべき姿像」を提案して欲しいものだと思います。

市民科学者について考える。その3

 高木さんが病気になった時、友人がわざわざ長野県上田市の別所温泉にある安楽寺というお寺に行き、住職の書を買い求めて、高木さんにプレゼントしました。友人は、この書をお前のことだよと言って高木さんに渡しました。次のようなものです。

本気
本気ですれば
大抵のことができる
本気ですれば
何でもおもしろい
本気でしていると
誰かが助けてくれる

と言うものです。
 僕も、この書が欲しくなって、安楽寺に電話をしました。1枚100円で、代金はアジアの若者たちが、教育を受けることの援助にするために使わせていただくと、住職さんは話されました。僕は50枚注文しました。早速送られてきて、何人かの友人に差し上げました。まだ、40枚くらい残っています。欲しい方は、ご連絡下さい。

 高木さんは、この色紙を見ながら「本気」について考えてようです。その光景が目に浮かびます。
 そこで、次のようなことを考えていたよういです。「市民科学者として生きる」の中には次のように書いてあります。
=この「本気」を、もう少し分析していくと、確信と希望ということに尽きると思う。理想主義者の私は、核のない社会が必ず実現する(出来うれば自分の目の黒いうちに)ことへの強い確信をもっている。さらにそのことのために本気になれば、私自身が少なくとも一人分の貢献ができるだろうとことへの、確信と自信をもっている。だから、私はいつも希望をもって生きていられる。先天的な楽天主義者と評されるが、それでよい。生きる意欲は明日への希望から生まれてくる。反原発というのは、何かに反対したいという欲求でなく、よりよく生きたいという意欲と希望の表現である=

 高木さんは、次のようにも書いています。
=現在の危機は、人々のあきらめから来ている部分が多いと考えたからである。企業や大学における科学者・技術者の態度も、主要には、「今さら自分が何を言っても世の中が変るわけではない」というあきらめが支配しているためである=と。
 また次のようにも書いています。
=欠如しているのは、人々の未来に対する希望である。先に「理想」として述べたような、安全で自由な暮らしと未来に対する人間としての当然の希望、そのために努力しているという基本的な意欲は、誰でも持っているのに、あきらめの浸透が希望を抑えこんでしまっているのだ=
 自分が投票に行ったところで、世の中が変るわけではないので、選挙に行かないというのと似ていると思います。

 知識をたくさん持つということは、とても大切なことだと思います。知識が無いと、行動はおこせないものですから。しかし、頭でっかちばっかりでは、単なる物知りでしかありません。

 僕は、この1月で満65歳になりました。職場という場を持ちながら、細々ではありますが、原子力に反対する活動をしてきました。この3月末で完全に退職を迎えます。職場という場からは、市民感覚というものを得ることができました。この事は、学者とか研究者というだけでなく、市民科学という面では大きな体験を得ることができました。

 高木仁三郎市民科学基金の助成選考委員という立場になって、改めて高木さんが考えていたことを思い直し、その尺度で選考委員としての職責を果たしたいと思います。

 これで、3回に亘った「市民科学者を考える」を終わりにしたいと思います。

市民科学者について考える。その2

 1975年9月、千代田区神田司町にあった原水禁本部事務所の屋上のペントハウス的な小さな部屋で原子力資料情報室がスタートしました。初代の代表は武谷三男さんが就任しました。僕は、個人的には武谷さんとは面識はありませんが、武谷さんが書かれた岩波新書の「原子力発電」という著書は、僕が初めて原子力発電と向き合った本です。

 その武谷さんと高木仁三郎さんとの間で、熱い議論が交わされたようです。「時計とかな槌論争」と言われるものです。資料室の立ち上げに参加した人たちの大勢の意見は、資料室は専門家各人が資料をもち寄り、共通に閲覧し、必要に応じて意見交換するという、一種のサロン的な場であり、それ以上は頑張りすぎない、ゆるやかな場であればよい、というものだったようです。この意見を積極的に主張していたのが、武谷さんだったようです。

 武谷さんは、高木さんに対し「科学者には科学者の役割があり、(住民)運動には運動の果たすべき役割がある。君、時計をかな槌代りにしたら壊れるだけで、時計にもかな槌にもなりはしないよ」という意見でした。
 それに対して高木さんは「資料室はともかく、私個人はそういう役割人間であることを拒否したいと思います。少なくともかな槌の心を併せもった時計を目指したいのです。時計は駄目でもせめて、釘の役割でもよいのです」と、そんな風に言ったみたいです。

 武谷さんは、学問的にも思想的にも輝かしい業績があり指導的地位にあった方でしたが、高木さんの発言はある意味、生意気な発言だったと受け止められたかも知れません。

 高木さんと会った時、二人だけの会話ですが、「省ちゃん、僕は資料室の総務部長だし、兼営業部長だし、研究者だし、運動に担い手だし、兼任はたいへんだよ」と話したことがあります。たいへんだと言いながらも、その顔は満足そうでした。あくまでも、心許せる二人の会話です。

 市民科学者は、分かりやすく話すことのできる能力が必要だとも話していました。この点では、高木さんは相当に努力されたと思います。「この事を説明するには、数式を書けば一番なのだけど、それでは一般的には分からない」とこれもよく聞いた話です。優秀な学者だからこそ、いい加減な説明では納得できないという考えから、高木さんの講演はまわりくどく、難しいという評判を最初頃はよく聞いたものです。
でも、相当に努力されたと思います。

 そして、すごい理想主義者でもありました。チェルノブイリ事故後の1988年4月、日比谷で行った全国集会をキッカケに「脱原発法」の制定を求める署名活動が取り組まれました。合計で約330万人の署名を集め、1990年、91年に国会請願を行いました。僕のように、「署名を集めてもどうにもならんよ」と冷めた目で見るのと違って、高木さんはこの請願行動によって、国会の場で「脱原発法」の議論が大きく展開され、この法律が出来るという理想を本気で考えていました。しかし、国会の中では当時の社会党を中心にした一部議員が取り組んだだけで、署名はまったく無視され、議論もされずに門前払いになってしまいました。これには、高木さんは相当にショックを受けたようでした。

 このことがキッカケになって、高木さんは病気で3か月の休暇を取ることになりました。

 「その2」で終わるかと思っていた、市民科学者を考えるですが、ついでにその3まで続きそうです。すみませんが、もう一回だけお付き合い下さい。

Appendix

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

Extra

プロフィール

省ちゃん

Author:省ちゃん
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新トラックバック