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市民科学者について考える。その1

 この度、高木仁三郎市民科学基金の助成選考委員という役割を担うことになって、市民科学者ということについて考えていました。

 高木仁三郎さんは、東京大学の理学部を卒業後、原子力業界に就職し、その後都立大学で助教授としての「安定」した仕事に就きましたが、その立場を辞めて、その後脱原子力運動の象徴的な存在となり、NPO法人原子力資料情報室を立ち上げた方です。
 2000年の10月8日に62歳の若さで亡くなっています。僕とは、「仁さん」「省ちゃん」と言い合える間柄でつき合わさせてもらいました。

 その高木仁三郎さんの遺志を継いで作られたのが、高木仁三郎市民科学基金です。僕がこの助成選考委員になったことは、名誉なことでもあり責任の大きさを感じていました。

 そこで、高木さんが書いた「市民科学者として生きる(岩波新書)」を改めて読み直しました。この本の帯文には、「がんと闘いながら、明日の夢を語る。専門家と市民のはざまで模索を続けた、一科学者の生き方」と書いてあります。

 高木さんが市民科学者を考えるキッカケとなったのは、「アメニモマケズ」の宮澤賢治です。宮澤賢治は、1926年教師として勤めていた花巻農学校を辞めて羅須地人協会をつくった人です。花巻農学校を退職した理由については、いろいろな理由が挙げられていますが、生徒たちには「農民になれ」と教えながら、自らは俸給生活をしていることの葛藤があったのではといわれてます。そこで、羅須地人協会をつくり、賢治自身も昼間は農業を行いながら、夜に農民を集め、エスペラント語、農業の技術、農民の文化などを教えています。

 しかし、「若者に社会教育を行っている」という噂が出て、警察から聴取を受けることになり、1年も経たない時に健治自らは離れています。

 宮沢賢治の、この羅須地人協会の講義案内文には次のように書いてあります。『今年は設備が何もなくて、学校らしいことはできません。けれども希望の方もありますので、まず次のことをやってみます。われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか 1時間』1時間というのは、講義の時間です。

 高木さんの生き方に大きな影響を与えたのが、この「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」という言葉です。

 1960年代の学生運動が盛んな時代に、学生たちの「学問とは何か」「あなたはなぜそのポストにいるのか」という、葛藤と思いの中で人びとは、三様の対応をしたと「市民科学者として生きる」には書いています。
 一つは科学者、技術者という専門家自体が特権的な存在だから、この特権をすてる。いわばドロップアウト派です。簡単にいえば、教師や学者を辞めて普通の会社員になることです。
 二つ目は、体制の中にとどまって、その矛盾と闘う。これはいわば内部抵抗派です。僕がすぐに思い浮かんだのは、京都大学原子炉実験所の「熊取七人集」という人でした。
 三つ目は、体制内のポストを捨てたうえで、自前の科学(学問)・技術をめざす、というものです。高木仁三郎さんは、この三つ目の道をめざしました。三つ目の道を歩む人というのは、極めて稀だと思います。

 まだ、長くなりそうなので、ここまでを「市民科学者について考える。その1」として、続きは次号にします。

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山口県知事選挙が終わりました

 山口県知事選挙が終わりました。2月6日告示、23日投開票で行われました。理由は違いますが、東京都と同様、突然の選挙という形になりました、山口県は、山本繁太郎前知事の病気による突然の辞任により行われたものです。
 しかし山口県の方は、東京都のような盛り上がりはありませんでした。

 山本繁太郎の路線を引き継ぐとした、総務省出身の官僚候補、村岡嗣政さんが当選しました。41歳という全国で2番目に若い知事の誕生です。前回出馬した飯田哲也さんが立候補するか否かが選挙前には注目されましたが、飯田さんは立候補しませんでした。

 当選した村岡新知事は会見で「前知事が果たせなかった思いを引き継ぎ・・・」と話していますが、ひねくれた目で見ると、前知事が果たせなかったとは何だろうと考えてしまいます。上関原発を復活させることかー。

 周プレNEWS2月18日号の、『小泉純一郎の「脱原発劇場」は、これからが本番』によると、次のように書いてありました。
 =小泉元首相は山口県知事選(2月6日告示、23日投開票)にまずは参戦する腹づもりだったという。細川候補の選対関係者がこうささやく。「実は、小泉さんは脱原発を訴えて山口県知事選に出馬を検討していた飯田哲也さんに、立候補すれば山口まで応援に駆けつけると、人を介して伝えようとしていたそうです。ただ、その話が伝わる直前に飯田さんが会見を開いて出馬見送りを表明したため、小泉さんの山口入りは幻に終わってしまった。もし、出馬見送りの会見前に小泉さんの意向がきちんと伝わっていたら、あるいは飯田さんは翻意して出馬に踏み切っていたかもしれませんね」=

 選挙結果を、2012年7月の前回選挙と比較してみます。
2012年(投票率45.32%)
山本繁太郎 252,461票(得票率47.6%)
飯田 哲也 185,654票(得票率35.0%)
高邑  勉  55,418票(得票率10.4%)
三輪 茂之  37,150票(得票率 7.0%)

この度の選挙(投票率38.82%)
村岡 嗣政 286,996票(得票率63.9%)
高邑  勉 115,763票(得票率25.8%)
藤井 直子  46,402票(得票率10.3%)です。

 前回選挙を6.50%下回る過去3番目に低い投票率になりました。前回の選挙で飯田さんが得た票の行方が注目されましたが、その多くが高邑候補に行き、一部は村岡候補に、そして大部分は6.50%とされている投票率の低さに行ったのではないでしょうか。
予想外に高邑さんが票を得たという感じでもあります。
 それにしても、村岡候補は山口県にとって、とても重要な課題である上関原発問題や米軍岩国基地について、選挙戦略的に演説などで触れることを避けてきたという印象を強く感じます。もちろん野党側が統一候補を立てられなかったという問題もあると思いますが、村岡新知事の「言われるがまま県政」になる心配を持たざるを得ません。

 二つの選挙が終わり、上関原発問題については、山本繁太郎前知事がこの4月まで結論を伸ばし伸ばしにしていた、埋め立て免許の延長問題が浮上してくるものと思われます。また、山口県漁協も祝島の「漁業補償金受取り問題」を動かしてくるでしょう。

 今年の春から来春の統一地方選にかけて、石川、滋賀、福島、愛媛、佐賀、京都など、原発立地やその周辺自治体で多くの知事選挙が予定されています。
 その意味でも今年は正念場でしょう。

ウクライナの首都キエフ

 ウクライナの首都キエフでの、デモ隊と治安部隊が衝突しているニュースをテレビで観ていて、僕が宿泊したことのあるホテルが見えたと、思わず声がでました。もしかしたら違うかも知れませんが、あの位置に建てられている、形も似ていました。独立広場と言われるところです。

 現在、衝突は約3か月続いていて、死者も77人とされていますから、深刻な事態だと思います。その内、2月20日だけで50人が死んだとされています。

 僕が、キエフを始めて訪れたのは1996年です。1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故から10年目の年に、ベラルーシの首都ミンスクとキエフで、原爆展をやるということで行きました。たぶん、この2月の時期だっと思います。凄い寒さだった記憶があります。キエフからチェルノブイリ原発までは、約100kmです。

 大きなホテルでしたが、風呂のお湯の出が悪く湯を入れたつもりでしたが、まさに水風呂になっていて、自然と歯がガクガクとなるような寒さを感じたのも思い出です。

 衝突のきっかけは、ウクライナのヤヌコビッチ政権がヨーロッパ連合(EU)との関係強化を棚上げしたことに憤った野党との問題とされています。旧ソ連の国々がヨーロッパ連合に加わる、加わりたいというのは、やはり今の生活の貧しさに原因があるのではなかろうかと思います。旧ソ連だった、バルト3国と言われるエストニア、ラトビア、リトアニアはヨーロッパ連合に加盟して「豊かな」暮らしをしているというように見えるのでしょうか。

 ヨーロッパ連合への関係強化を求めて幸せを求める若者層と、そうはいかんぞ、ウクライナはウクライナだという保守層との対立が根底に在るのかも知れません。そんなにウクライナを知っていないのですから、軽く言うことは控えたいと思います。しかし、ウクライナの国が分裂するのではという報道には、暗い気持ちになります。

 1996年の旅行はベラルーシとウクライナだったのですが、これは僕が思った感じに過ぎませんが、ベラルーシの人たちはおとなしいというか、国家に大きな反対を訴えるような感じには見えませんでした。もちろん、ベラルーシで宿泊したホテル近くの広場で行われていた反政府集会を見ることはありましたが。しかし、ウクライナはとても個性の強い人が多いという感じでした。キリスト教の聖地であり、世界遺産にもなっている多くの歴史的な建物や像もあります。テレビで出ていたあの独立広場では、絵画や遺恨を路上で売っている人たちが何人もいました。自称画家という感じの人たちが、絵筆を持ってキャンバスに向かっていました。

 ベラルーシもウクライナも、チェルノブイリ原発事故では大きな被害を受けたところです。「受けた」と過去形で語るのはいけないと思います。「受けている」が正解だと思います。

 キエフは歴史的な背景から、京都市と姉妹都市の関係を結んでいると思います。京都には、キエフと名のついたレストランも何軒かあります。機会があったら、京都で京料理ではなく、ウクライナ料理を食べるのも、興味深いかも知れません。
(1996年のチェルノブイリ旅行については、「ヒロシマ発チェルノブイリ 僕のチェルノブイリ旅行」という著書があります。:七つ森書館発刊です)


1か月後

 後、1か月と少しだというのに、まだ現実の問題として実感が湧いてこないことに、消費税アップがあると思います。
 今朝、出勤途中に郵便ポストを見たら、郵便差出し口に小さな字で、「4月から郵便料金が変わります」というシールが貼ってありました。80円が82円に90円が92円となります。先日、高速道路を走っていたら、高速料金の休日、深夜割引が4月から廃止されるということを小さな文字で書いた、掲示板を見つけました。

 労働組合も何年かぶりという形で、ベースアップを要求するというニュースがありました。しかし、その額はせいぜい1パーセント、3千円から4千円というものとなっています。しかし経営者側は、予想以上に抵抗をしているようです。「日本経済の先が読めない」という理由を掲げています。ベースアップをするのも、大手会社でそれも正社員のみという状況です。
 消費税が3パーセント上がり、便乗値上げなどを考えれば、今年の年末までに物価は今より4パーセントは上がるだろうと、僕は予想しています。4パーセントというのは、超インフレ状況です。

 長い間続いたというデフレで物価が下がったという理由によって、年金は少しずつ下げられてきました。4月からは、もう一段下げられることになっています。

 労働組合も庶民も、物分かり良いというか諦めているというか、普通の国ならゼネストかクーデターものだと思うのですが、「ゼネスト」も「クーデター」も、この国ではその言葉の意味も解らない人がいるかも知れません。

 今は、消費税の値上がりを前にした、いわゆる「駆け込み需要」で、景気が良さそうに見えていますが、4月からはその反動が現れるのは目に見えています。国や経済界は、反動落ち込みは夏くらいまでの短期間だと言ってますが、何を根拠にしているのか分からないものです。

 デフレ化の物価高、仕事が無いという状況、こういう時に犠牲にさせられるのは、庶民それも非正規という不安定な状態に置かれている人たち。

 ここでブログが終われば、「前向き語り」というタイトルが泣いてしまいます。じゃあどうするか?

 僕は次のようなことを考えました。
 試食コーナー好きになること。古本屋に行くこと。本はアマゾンのようなところで売っている、安い本を選ぶこと。リサイクル店を使うこと。寒い時は、みんなで「おしくら饅頭」をして暖まること。暑い時は、図書館とか公共の建物に行って涼しむこと。奨学金といったものを活用すること。買い物に行ったら値切ること。値切ることの出来ない、スーパーマーケットやコンビニは出来るだけ使わないこと。近いところは歩くこと。赤ちゃんやお年寄りに優しく接して、その笑顔などから心優しい気持ちになること。映画は出来るだけ、映像ライブラリーのようなところを利用して楽しむこと。新しい映画も、古い映画も映画の中で扱うテーマというものは、そんなに変わったものではありません。友人との議論や話し合いを楽しむこと。

 こういう考えでの暮らすのは、往々にして貧乏臭いという感じで後ろ向きになるものですが、前向きに考えて実行することが大切だと思います。

 そして選挙になったら、恨み辛みを忘れることなく、投票することによって表明することだと思います。そして、庶民イジメの政策に反対する集会やデモに出会ったら、その列に加わること。署名もすること。まだまだ、在ると思いますよ。

パパさん、とりあえず帰国

 あっという間の1週間でした。インドネシア人である孫のお父さんがインドネシアからやってきて、関西空港まで迎えにいったのは、先週の木曜日のことでした。お父さんはインドネシアで、お母さんと子どもは日本で住んでいるという変則状況をこのまま続けるということは、良い状態ではないというのが、僕の考えでした。

 娘は日本で住みたいという考えのようだと思いますが、お父さんが住みなれたインドネシアを離れて、この日本で暮らすということは出来ないと思います。僕も、住みにくい日本へ孫や妻のためにということで、自分の仕事を犠牲にしてやって来て、ろくなことは起こらないということは、多くの例から知っていますから。

 亡くなるとか別れるとかいうことで、両親が欠けるというのであれば、それなりの決断をしなければならないでしょうけど、「立派?」な両親いるわけですから。

 極端な話しアフリカの砂漠地帯だろうとジャングル地帯であろうと、僕は、まったくこだわる気持ちはありません。このグローバルな時代、わが身内が世界中で頑張っているというのは、楽しみだとも思っています。

 すぐにどうこうするということはないけど、孫を含めて3人でゆっくり話しをして欲しいということだけは、娘に伝えていました。今日、娘は仕事を休んで話しをするということのようです。

 娘が長い間住んでいたということから、僕も何度かインドネシアを訪ねたことがありますが、最初の頃は日本の昭和中期を思わせる田舎風景でした。1年に何度も米が収穫できる水田では牛が働き、とてものどかで、のんびりできる所でした。最近では1年半前に行きましたが、急速に車が増え空気が汚れているのには、驚いたものです。

 孫も来月で4歳。たった1週間ですが、「パパ、パパ」と言って嬉そうでした。友人から「孫さんは、何語を話すの」と聞かれることがありますが、今は日本語、それも広島弁だけです。将来インドネシアに帰るということになれば、インドネシアの言葉も話せるようになる必要もあると思います。

 あまり家族のことなどで、考えあぐんだりするタイプでは無いつもりでしたが、国際結婚における様々な問題を考えています。グローバルな時代における、極めてローカルな話しです。まあー、成るようにしか成らんか。

 娘むこは明日の飛行機で、気温35度という1年で一番暑いこの季節の国に、100円ショップで買いあさったお土産を持って、とりあえず帰っていきます。

 もし、この問題で皆さんの意見がありましたら、教えてくださいませんか。

エネルギー基本計画が動き出した

 当初は1月中に閣議決定するとしていた、エネルギー基本計画が来月中にも閣議決定されようとしています。原発問題を大きな争点として行われた、東京都知事選挙の結果を待っていたという感じです。予想はされていた通りです。

 しかし、都知事になった舛添さんも原発を進めるとは明言していません。彼は「時間を掛けて原発を無くす方向に向かう」と発言しているのです。細川さん、宇都宮さんの「即時ゼロ」とは違いますが。「原発を進める」と言っていたのは、田母神さんだけだったでしょう。

 まずもって、この選挙結果を原発復活と考える浅はかさには、呆れてしまいます。それを言うなら、沖縄県の名護市長選挙で示された普天間の辺野古移設に反対という市民の意思は、どう国政に反映するのでしょうか。これぞまさに、アベシンのダブルスタンダード(対象によって適用する基準を変えること)です。

 エネルギー基本計画の問題点については、以前にも書いたことがありますが、何と言っても、福島原発事故の反省と検証、計り知れないこれからの課題を無視して原発を進めようとしていることです。

 エネルギー基本計画を審議した委員のメンバーを見ても、すべてが原発推進派です。3・11以後になっても「それでも原発はやめられない」を書いた人。原発ズブズブの福井県知事、元経済産業省官僚といった具合に、まあーここまで原発推進派を入れたと驚くばかりのメンバーです。そして秘密裏の内に、短期間にアベシンの意向にそって決められました。

 エネルギー基本計画は、原発比率を下げるとしながらも、原発を重要なベース電源であるとしています。その理由も、①経済的理由②地球温暖化の防止③中東依存の排除、という時代遅れな言い訳でだと思います。
 再稼動を明確に位置付け、高レベル放射性廃棄物の最終処分も国の主導によって自治体に申し入れるとしています。
 そして理由を明確にしないまま、再生可能エネルギーについて、向こう3年間は勧めるということです。

 また原子力規制委員会は、3~4週間のうちに昨年7月に再稼動申請した原発について、早いものは結論を出すということを委員会の会議の中で明らかにしました。

 改めて、次のことを頭に入れて原発の再稼動を止める活動を強めることが必要だと思っています。
1、規制委員会のいい加減な審査は許さない-審査に問題があることを市民や自治体に見えるようにすること。審査の様  子を見ながら、規制委員会に対する意見や申入れを行うこと。
2、行政が計画する広域避難計画が役に立たないことを具体的に明らかにする。
3、「原発いらない」民意が圧倒的であることを示すこと。

 こんなことを頭において、正念場の春を迎えたいと思います。

「人・物・金」か「金・物・人」か!

 NHKラジオの「ビジネス展望」で、同志社大学の浜矩子さんが現代の状況について、本来大切にすべき順番である「人・物・金」というものが、「金・物・人」になっていることを指摘し、そのためにどうすべきかということを話していました。

 僕が、日頃から思っていることを指摘されたので、聞き入ってしまいました。浜さんから、それに対する具体的な対策は聞かれませんでした。たぶん、浜さんには対策はあったのだろうと思いますが、ラジオの中では「その事を意識することが一番」という範囲に留まりましたけど。
 浜さんの本音を言えば、今の自民党政権を批判することになるので、遠慮されたのだろうと思っていました。なにぶん最近、話題になったビジネス展望ですから。

 大事にすべき第一番は、当然に「人」だと思います。しかし、今の世の中、「金」になっているようで堪りません。「企業あっての社員」という、もっともらしい言葉がそれを象徴的に示していると思います。中国電力も、「島根原発の再稼動が出来ない中で」という常套句を使って、労働組合は賃上げもボーナスも要求しないというもの分かりの良さです。

 僕が若かりし頃、労働組合の基本的な姿勢は「収益(会社の)よりも、公共性、公共性よりも労働条件」というのが、基本的なスタンスでした。それが、収益のためには公共性も労働条件もないがしろにされる状況になりました。

 「人・物・金」という本来の姿から、「金・物・人」と立場が逆転してしまいました。

 「人」が大切にされるためには、やはり格差を無くすことだと思います。1パーセントの金持ちと、99パーセントの貧困層という言葉も聞きます。基本的なことですが、ほどほどの生活が誰にでも出来る社会だと思います。失業者も病気になっている人も、お年寄りも、障害者も、シングルも、原発事故により避難生活をしている人も。そのためには、それぞれの人の収入を上げて格差を無くすこと、まったく無くすのは不可能でしょうけど、その範囲を縮めることです。

 物を大切にするには、やはり使い捨て社会を改めることだと思います。戦後から突き進んできた「大量生産・大量消費・大量廃棄」を考えなおすことです。その事を頭に置いて、ちょっとしたことですが、「マイ箸」を持つという思想も大切だと思います。

 浜矩子さんは、たぶん昨年の正月に日本記者クラブでの講演で、「僕富論から君富論へ」、「金利を上げる、賃金を上げる」ということを話していました。
 「僕富論から君富論へ」という考えは、僕だけ良ければという考えではなく、君(貴方)にも良い社会をという意味です。

 これからの時代、何があっても乗り切られる強さも大切だと思います。その強さを与えてくれるのは、家族であり、友人、知人、コミュニティ、そしてとり巻いている環境だと思うのですが。

 ある意味、これからは働く人にとっては受難の時代。とりわけ男には。しかし考えようによっては、一人では生きていけないのだという本来考えるべきことを、考えさせる時代になるのかもしれません。そうとでも思わないとやってられません。

上関町議選挙が行われました

 上関町議選挙の投開票が行われました。去年の秋頃から、頭から離れない問題でしたから、正直ホッとしています。今回の選挙から議員定数が2人減って10人となりました。13人が立候補しました。

 上関町に原発建設問題が浮上して、8回目の町議選挙となりました。上関原発建設計画は1982年に浮上しましたが、夏から年末に掛けてのことです。確かにこの年に議員選挙が行われていますが、この度と同じ2月でした。この年の選挙では、原発建設問題は選挙の争点になっていません。だから、原発問題が争点になった最初の選挙は、1986年2月です。あの時は6人の反対派議員が誕生しています。1986年とは、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故が起きた年ですが、選挙は事故から2か月前でした。

 この度の選挙、マスコミ報道では原発推進派が8人当選。反対派は2人当選と言ってますが、ポスター掲示板に貼られている推進派候補者のポスターには、「原発で町づくり」という意味の言葉を書いた人はいませんでした。初めの頃の選挙では、「原電誘致で豊かな町づくり」とモロに書いたものがほとんどだと思います。
 もちろん原発反対の候補者は、あの頃もこの度も「原発に頼らない町づくり」「原発建設反対」と明確に打ち出していました。さすがに推進派でも、福島原発事故で「原発推進」は書けなかったのでしょう。

 さて選挙結果ですが、祝島の清水敏保さんが261票で3位当選。同じく祝島の山戸貞夫さんが235票で4位当選でした。次点になった共産党公認の田中照久さんは149票で、最下位当選の人との差は6票でした。この田中さんは、前回の選挙前から上関町に住んで活動している人ですが、前回よりも大きく票を伸ばしました。また僕の関心事は、推進側候補の誰が落選するだろうということにも、ありました。一人か二人ですが、予想通りの新人女性候補者でした。
 当日有権者数は2992人。投票率は86.03%と町議選挙では過去最低です。反対派の得た票数は678票、26.5%となります。

 僕の分析では当選確実ライン数を200票として、祝島の票で1.5人分、祝島以外で1.5人分の数が在ると見ていました。1.5プラス1.5で3人の当選をと期待していました。実際に678票を得ていますから、そうなる可能性もあったとは思いますが、予想通りにならないのが選挙でしょう。

 今、山口県では23日の投開票に向けて、知事選挙が行われています。知事選挙が終われば、祝島の「漁業補償金受取り問題」や、前任知事が伸ばし伸ばしにしていた、埋め立て免許の延長問題が浮上してくるものと思われます。

 そして、来年の秋には上関町長選挙が控えています。清水さん山戸さん、協力して議会の場で活躍して欲しいものです。

 まだまだこの度の選挙については、話したいことはたくさんあるのですが、ブログではこの程度にしておきます。

パパさんの来日

 もうすぐ4歳になる孫のお父さん、娘の連れ合いですが、彼がインドネシアからやってきました。AA会議(アジア・アフリカ会議)が開かれたバンドン生まれで、日本語も上手に話せます。娘がインドネシアに行って仕事をしていた時に知り合いとなり、結婚したのです。

 14日の朝早く関西空港に到着するということなので、僕と娘、孫の3人は前日に空港近くのホテルに宿泊し、空港に出迎えに行きました。

 車で行ったのですが、14日の大阪南部は稀にみる大雪。前日にスノータイヤと交換していましたが、高速道路のほとんどが通行止め。先週東京に行った時は東京が雪、今週関西に行けば、こんどはこちらが雪。本当に雪男だと実感しました。一般的に言われる雪男のような、たくましさは僕にはありませんが。

 孫にとっては、たぶん2年ぶりくらいの対面だったと思います。空港で対面した時、どんな反応をするだろうかと気になっていました。孫は最初の3分くらい、恥ずかしそうな、照れくさそうな態度でしたが、すぐに慣れて名前を呼んだり、「パパ、パパ」と言って嬉しそうな顔をしていました。やれやれと同時に、「すぐに親しくなりやがって」という少しばかりの嫉妬心も。

 娘、孫と3人でゆっくり話し合って、これからの暮らし方について決めて欲しいものです。

 それにしてもインドネシアは、今が一番暑い季節です。35度くらいの気温だということですから、30度の温度差と、降りしきる雪の世界にやって来たのです。山陽道のサービスエリアでは、二人は雪投げをして遊んでいました。嬉しい光景です。

 僕へのおみやげは、いつものようにヘアー・トニックです。インドネシアの製品を使っていると、毛がフサフサ、白髪も少なくなるような気持ちになります。それだけインパクトのある容器だからです。

 帰宅してパソコンのメールをチェックしたら、すぐ上の姉の娘が出産したというのが入っていました。僕にとっては姪です。彼女はアメリカのワシントンに住んでいて、アメリカ人と結婚しています。僕の家系に、二人のハーフというかダブルがいることになりました。

 さて、いよいよ明日は上関町議会議員選挙の投開票日です。上関町にとっては、福島原発事故から初めての町議会選挙。上関原発問題がクローズアップされてからは、7回目の選挙です。非常に気になるところです。11日の告示の日は駆けつけることができ1日応援をさせてもらいましたが、孫のパパさんの来日などで、それだけになりました。

脱原発の思想について考える

 都知事に当選した舛添要一さんが2月10日のNHK「クローズアップ現代」に出演して、厚生大臣の経験を活かして、東京都を福祉世界一の都市にすると話していました。

 出生率が日本一低く、高齢化の進む東京、特別養護老人ホームなどの不足、子育てと仕事の両立が難しい環境、団塊世代が後期高齢者に突入する2020年問題など、「福祉」を強調していました。

 番組の中では、子育て世代の若い夫婦と、高齢者世代の夫婦の生活が映像で紹介され、「原発問題も大切だけど、やはり子育てや福祉が気になる」とインタビューで語ります。

 考えようによっては、原発はエネルギー問題、放射能の問題。福祉とは違う課題だと受け取られるかもしれません。

 しかし、僕は次のような考えを持っています。原発ほど弱いものいじめの問題は無いと思います。過疎地に建設し、そこから得られる電力は都会に住む人たちが使います。放射性廃棄物もしかりです。原発内で働く労働者も、下請け孫請け構造と言われるように弱い立場の人たちが、放射能に強く汚染する仕事をさせられています。そして限度以上の被ばくをすると、使い捨てです。
 そして人間だけでない動植物も、そして福島原発事故や放射性廃棄物問題に見られるように、将来までも禍根を残してしまいます。

 戦後から続いた「大量生産、大量消費、大量廃棄」の考えも、その根底に原発構造を感じます。障害者差別、男女差別、格差社会、弱いものいじめ、などなど、これらもすべて原発構造の中に見られる思想だと思います。

 脱原発の考えが、イクオールで福祉の問題とつながるとは思いません。脱原発の思想は、もっともっと大きな視点からの、人間や自然、地球が尊重される社会の考えだと思います。都知事選挙もこのようなところまで発展させて論戦を闘わして欲しかったとも思います。脱原発社会を目指す闘いは、弱い立場の人を救う運動だと思います。

 脱原発の思想について、僕はずっとこのように思っています。そこまで発展させないと、福島原発事故は余りにも不幸だと思っています。

 みんなで「脱原発の思想」を膨らましてみませんか。

都知事の結果

 不愉快というか、何とも面白くないという思いです。予想されていたとはいえ、東京都知事選挙の結果です。新聞は「反原発票分散」と見出しを書いていました。
舛添要一、211万2979票
宇都宮健児、98万2595票
細川護熙、 95万6063票
という結果です。

 朝のメールを観ると、「予想外に宇都宮さんが、細川さんが得票数が多かった」というのが目に止まりました。そういうことを喜んでいる問題では無いと思います。選挙は結果、結果が悪ければ何も意味もありません。なぜ、反原発候補が一本化できなかったのか、意志を貫き通すということも大切だとは思いますが、知事選挙という性質から考えれば、そして有権者の思いを考えれば、やはり「勝って、なんぼのものよ」という思いです。

 舛添要一さんですら、「自民党を離党したものを」という声が大きかったと言われてますが、やはり集中したのは作戦だと思います。

 宇都宮さんが細川さんよりも、数が多かったのは投票率だと思います。前回よりも16.46%下回った、過去3番目に低かったといわれてます。細川さんは、浮動票を集める人だと思っていましたが、あの雪の中では浮動票は集めきれなかったのではないかと思います。

 宇都宮さんの数と細川さんの数を合わせても、舛添さんには届かない数ですが、選挙はやはり流れだと思います。「有名」な二人の候補が一本化していれば流れは変わっていたと思っていますから。

 無効票の数を知っていませんが、品川駅の駅頭で細川さんと、応援演説をしていた小泉さんの姿を見た者としては、「小泉純一郎」と書いた票もあったのではないかと思っています。それだけ小泉さんの方に迫力を感じたからです。

 新聞は「有権者、安定感を重視」とも書いていました。近所にある公明党支持者の方と思われる家にも、安定が大切だという意味の公明党のポスターが貼ってありました。
 じゃあ、今の庶民の生活が安定しているかということです。少子高齢化問題、ワーキングプアーの問題、環境問題などなど、決して有権者は安定していないと思います。

 僕に言わせれば、反原発が一つにまとめられなかった事にこそ、有権者は不安定を感じたのではないかと思うのですが。


ピート・シーガーが亡くなった

 1月27日にアメリカのフォーク歌手、ピート・シーガーが亡くなったという新聞記事がありました。94歳という年齢だったそうです。

 1978年春、アメリカの草の根平和団体と交流するため始めて訪米した時、彼の歌である「ウィ・シャル・オーバーカム」で始まる反戦フォークソングを覚えました。「ウィ・シャル・オーバーカム」は「勝利を我らに」という意味です。

 公民権運動と、ベトナム戦争に抗議する象徴的なこの歌は、「花はどこへ行った」というタイトルの賛美歌だそうです。この頃の楽器は、ギターよりもバンジョーが主役だったと思います。僕は、ウィ・シャル・オーバーカムよりも、「フォーエバー ヤング(Forever Young)絶えず 若く」が好きでした。今でも、パソコンで聴いています。

 1960年に始まり、1975年4月に終了したベトナム戦争は、世界中をベトナム反戦運動に盛りたてたと思っています。アメリカの介入によって拡大していったこの戦争、加害者としてのアメリカと、その中でのベトナム反戦の運動は、アメリカ人の中にも疲労と焦燥感を受けた人は多いと思っています。ベトナム戦争が終わって、少しの時間、運動の落ち込みがあった時がありましたが、1978年頃から核兵器や原子力発電に反対する運動が、少しづつ盛り上がりかけてきた時だと思っています。非暴力直接行動という言葉も、この時期に教わったものです。

 無名の人にも知り合いができました。アリゾナで知り合った、テッド・ウオーム・ブランドさん。広島にも来てもらって、「反原子力コンサート」を開催したのは、1978年10月26日のことです。僕にとっては、記念すべき日です。テッドさん、今、どうしているのでしょうかねえー。

この曲の他に、
ディス ランド イズ マイランド
ディス ランド イズ ユア ランド
フロム カリフォルニア 
ツー ニューヨーク アイランド
というのも聴いたと記憶しています。
この大地は私たちの大地
この大地はあなた達の大地
カリフォルニアから
ニューヨークまで
という意味ですよね。

 日本でも、労働組合の集会などで歌われていた曲があります。「頑張ろう」という題ですが、こんな歌詞でした。
頑張ろう!
突き上げる空に!
黒がねの男のこぶしがある!
燃え上がる女のこぶしがある!
闘いはここから、闘いは今から!

 この歌を覚えている人は、少ないでしょうね。最初の「頑張ろう」の次に「それそれー」という、掛け声を入ったと思います。

 最近、この歌を唄う集会というのに参加したことはありませんが、中国電力の中にあった電産中国(日本電気産業労働組合)の大会の冒頭に歌っていたのが懐かしい思い出です。

東京都知事選挙を体感しました

 東京は、前日の春を思わせる暖かさとうって変わって、雪の舞う寒空でした。4日のことです。品川駅近くのホテルの部屋で濡れた頭と服を乾かしていると、駅の方向から選挙演説の声が聞こえてきました。

 演説しているのは、都知事候補の細川護熙さんの宣伝カーでした。
 「ラッキー」と思って早速演説を聴きにいきました。小泉純一郎さんも応援に来ていました。駅の前には、300人を超える聴衆がいたでしょうか。雪が降る、凍えるような寒さでしたが、すごい熱気でした。演説しているのが二人とも元総理大臣ということでしょうか、制服、私服を含めて大勢の警察官がいます。
 赤いコーンが並べられ、道も整理されています。選挙カーも大きなもので、近くには黒塗りの高級車も停まっています。たぶん、小泉さんの車だと思われます。選挙カーの前はテレビカメラが何台も並んでいました。

 細川さんも熱気のある演説でしたが、小泉さんの方が数段とテンション上っていました。原発は放射性廃棄物の処理処分が出来ないこと。福島原発事故は取り返しの出来ないこと。再生可能エネルギーで日本の産業を復活させよう。自分が総理大臣だった頃は、原発に反対しなかったのに、なぜ今反対しているのかという批判を受けていることについては、「過ちを改むるに、はばかることなかれ」という言葉を引用していたのには、笑ってしまいました。

 僕は、演説の合間に「そうだー」とか「よしー」の声を上げ、拍手もしました。演説場の周辺には、「原発を次の世代に残したくない。W元首相の挑戦」というタイトルが書かれた、「東京が日本を変える会」の法定2号ビラが、何人もの応援員の人たちが配っていました。その中に書かれている、小泉さんの挨拶を紹介しておきたいと思います。

 私はこの厳しい挑戦を支持し、連日力の限りを尽くして応援しています。
 それは内閣総理大臣として原発を認めてきたことを深く反省し、このまま黙っていてはいけないと痛感するからです。
皆さん、東京オリンピック・パラリンピックを目標に、東京を原発ゼロの新しい経済、新しい生活のモデル都市に変えようではありませんか。
 都政の転換が、その出発点であると私は確信しています。
                                          元内閣総理大臣 小泉純一郎
 
 寒さと雪の降る中、赤ちゃんをスッポリとかぶせるような物にくるんだ服装で、このチラシを「お願いします」の声を上げながら、配っているお母さんと思われる人がいました。すごく感動するシーンでした。

 いよいよ日曜日は都知事選挙の投票日。なぜ反原発候補が、一本化出来なかったのかは本当に残念至極ですが。
翌日には、同じ場所で参議院議員の山本太郎が「みなさん選挙に行きましょう」と演説していたようです。
 これだけでも、この時に東京に居たことの意義があったと思っています。

沼田鈴子さんのこと

 「沼田鈴子さんとの事について、お話しを聞かせて頂きたい」という電話が掛かってきました。その前に、知人から僕の携帯電話番号を教えても良いかという連絡があったので、待っていたのです。僕の方は、一日早い節分の鬼に徹していたので、中味を詳しく聞かずにOKしました。

 そして今日、待ち合わせの場所に行ったら、テレビ用のカメラら3人が待っていて、いきなり撮影となりました。ヘアーは乱れていないか、右から撮影より左の方が、頭髪の薄さが目立たないとも思いましたが、こうなったらやるしか無いのです。

 聴かれたことは、沼田鈴子さんとの思い出でした。1923年生まれの沼田さんは広島で被爆、左脚を切断されましたが、自らの原爆体験を証言しつづけ2011年7月に87歳で亡くなられています。婚約者の戦死。そして、右脚を麻酔無しで切断。被爆したアオギリに励まされて、原爆体験を語り続けていました。

 沼田さんは、勤務先だった広島逓信局(今の郵政局)で被爆しました。僕の家族も逓信省一家だったので、両親との関係もありました。

 とにかく優しい人でした。そしてとても勉強熱心な方でもありました。「あのねー。頑張っているねえー」という優しい語り口は今でも忘れられません。

 なぜ沼田さんは、あんなに優しかったのか?という質問が投げかけられました。僕は少し考えましたが、その思いをこう話しました。
 沼田さんは、被爆したこと、婚約者を亡くしたこと、自らの足の切断、障害者に対する差別・偏見、そして優しさが故に平和運動の中でも、たいへんな苦労をされました。でも、いつでも優しかったのは、これ以上の苦労が無いほどの苦労をした方は、庶民的な苦労というのは、大したこと無いと思われるのでしょうかと、話ました。
強い人ほど優しいのだ!僕はそう思います。

 昨年、沼田さんをモデルにした「アオギリの下で」という映画が完成しました。沼田さん役を女優の原日出子さんが演じています。ぜひ、観る機会があったら、平和運動に関わっている人だけでなく、たくさんの人たちに観て欲しいものです。

NHKラジオ、ビジネス展望

 1月30日木曜日の朝、いつものように6時40分携帯電話が目覚ましを知らせました。NHKラジオのSWをオン、43分くらいまでニュースです。そして、いつものテーマソングが流れて「ビジネス展望」のはずでした。しかし、アナウンサーの「今日のビジネス展望はお休みです」というコメントが聞こえてきました。

 「えー、こんなことは」まさに前代未聞です。ブログの中でも、何度か書いたと思いますが、僕は何年も前から、ビジネス展望のファンです。土日は休みですが、元旦でもやっています。

 アナウンサーは、休みになった理由は言いませんでした。「今日は、みなさんからのお便りをたっぷり、お伝えします」と言って、何通かのお便りを伝え始めました。聴いていて分かるのですが、まさに時間稼ぎです。間で加藤登紀子の歌が入りました。約10分間の時間が経過して、「やれやれ」という感じのアナウンサーのコメントで、いつもの「1月30日、今日は何の日」で、事なきを得た感じになりました。

 何で中止になったのだろうと思いながらも、出勤の支度に取り掛かりました。予定されていた人が、インフルエンザにでも掛かったのかなあーという思いでした。このビジネス展望でコメントする人は、ホームページを開くと予告されているのですが、ファンの僕としては、それは見ないことにしています。
 その方が、楽しみだからです。そのまま出勤し、夕方帰宅してメールをチェックすると、何通かのメールが入っているではありませんか。ビックリしました。
 この日、ビジネス展望に出演することになっていた、東洋大学の中北徹さんが原発問題を話そうとしたら、東京都知事選挙を理由にNHKからテーマを変えるように求められ、中北さんが出演を取りやめたというものでした。メールには、中北さんからNHKに送ったという放送原稿も入っていました。原稿が入っているということは、この情報は中北さんから提供されたものだと思いました。

 中北さんは、レギュラー出演されている方ですが、たぶん今年は初出演だったと思っています。この出来事は、翌日の中国新聞にも「NHK脱原発内容拒む 教授降板 都知事選影響を理由」という見出しで6段記事となっていました。
僕の率直な思い、NHKも新しい会長や長谷川経営委員の発言で、まさにケチの付いていた時に、この度のことはマスコミも関心を示したのだと思います。

 中北さん、今後、この番組には出演しないということですが、まあーそうは言わずに、東京都の真っ最中ですから、選挙が終わったらしっかりと落とし前をつけてもらって、再登場して欲しいものですが。

 それにしても、マイナーだと思っていたビジネス展望が、一変して大きく浮上したものだと思います。ラジオはテレビと比べて、言いたいことが言える媒体だと思っています。この事件が悪い意味で、クローズアップされて自粛と言うか、萎縮しないで欲しいものです。

こだわりと柔軟性の調和

 30日に放送されたNHKクローズアップ現代を、興味深く観ました。「東大紛争秘録 ~45年目の真実~」という内容です。1960年代後半に、学生紛争が盛んになった頃、「大学の自治」を守るか「機動隊の導入」という手段を選ぶかに悩む大学関係者の秘録です。
 機動隊導入を決断した加藤一郎総長代行は、40歳代で若くて男前だったのを思い出します。加藤さんも、2008年11月に86歳で亡くなったということでした。

 「大学の自治」とは、大学という学びの場所で起こった紛争に対して、機動隊という国家権力に解決を求めるのでは無く、あくまでも大学内で解決したいという考えです。

 紛争の発端は、東大の医学部自治会による登録医制度に反対すること、いわゆるインターン制度の導入に反対する運動からといわれていますが、背景にはベトナム反戦運動、第二次安保闘争があるともされています。学生たちは、「なぜ大学で学ぶのか」「大学は何のために在るのか」そうすることによって、権力に取り込まれることに悩む姿も見えるように思うのです。
 今だったら、「大学は良い働き先を探すこと」という答えがかえって来るかも知れませんね。

 この時期、東大正門近くで下宿生活をしていたことがあります。延べで半年くらいでしょうか。1969年1月の、安田講堂事件の時は見ていません。しかし、あの時期です。正門の周りには、たくさんのスローガンを書いた看板が、貼られていたのを思い出します。御茶ノ水にあった日本大学の屋上では、旗を持った学生がヘルメットを被って座っていました。

 番組を観ながら、高木仁三郎さんの事を思い出していました。高木さんのことは簡単に書きますが、東大を卒業した高木さんは日本原子力事業という会社に勤めた後、東大の原子核研究所の助手になり、その後紆余曲折を経て原子力資料情報室を立ち上げ、研究者として、又、運動の担い手として、反原発運動のカリスマ的存在とまで言われた人です。もう一つのノーベル賞とまで言われている、ライト・ライブリフッド賞を1997年に受賞し、2000年10月に62歳の若さで亡くなりました。

 亡くなった年の12月に、高木さんの遺志により高木仁三郎市民科学基金が設立され、今もこの基金から助成を受けた人たちは、日本だけでなくアジアの地域でも頑張っています。

 僕は、高木さんとは親交がありました。こんな話しをしたことがあります。学生紛争の時、学生の気持ちに同情的な高木さんでした。しかし、助手と言えども大学側の立場です。学生と大学側の板ばさみになり、相当に悩んだという話しです。

 あの頃学生だった人も、その多くが65歳を超えた老人に仲間入りしている時期になりました。

 学校のことは学校で決めるということに、こだわり続けた関係者。
 今、特に若い人に対して言いたいことです。こだわっても、思い通りにならない時代ではありますが、右だろうが左だろうが、こだわるものを持って生きて欲しいと思います。

 あの頃の僕は、喫茶店で同年代の友人と社会について、政治について大いなる議論を交わしたものです。最近は、こういうことの出来る喫茶店のような場も少なくなりましたね。
 今の僕は「こだわりと柔軟性の調和」という言葉を実践しています。

Appendix

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