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修学旅行シーズンが始まりました

 新学期、春本番とともに修学旅行シーズンが始まりました。修学旅行生らに広島平和公園を中心にした碑めぐり案内を頼まれて、させてもらっています。

 いよいよ明日が今シーズン最初の案内となりました。今月だけで4回の予定が入っています。

 今月はすべて中学生ですが、平和公園には全国からやってきます。5~6月は主に中学生が多く、秋になると高校生が多くなります。だいたい10人~15人くらいを一グループで案内するのですが、明日がシーズン最初ということで、改めて案内コースの確認などをしておりました。

 最近は、旅行会社の行程の中に碑めぐりが組み込まれているので、どうしても時間が短いという傾向です。時間が短いと困るのは、第一に初めての生徒らとの「通じる人間関係」を作ることが難しいことです。

 会ってすぐに、この碑は「ああだ、こうだ」と説明するのは僕の性格に合いません。だからどうしても、自分を分かってもらい、聴いてくれる生徒たちも知りたいということからやろうとすると、どうしても時間が足りません。もちろん碑めぐりも、短時間では到底無理な部分もありますし、生徒たちの感想も聞きたいしという感じです。

 だから今年から、僕の方でその学校のホームページを見ておくことにしました。ホームページでは、「いよいよ修学旅行だ!」という書き出しで、新幹線に乗る練習をしたとも書いてありました。明日は午前5時過ぎに学校へ集合だそうです。

 こんなに早く学校へ来て、広島市までやって来て平和公園の碑めぐりをして(させられて)、「可哀想に」と声が出ました。そうなると少しでも、思い出に残る内容にしなければと、これまたプレッシャーです。

 中学生だけではありませんが、生徒たちは本当に「カワイイ」ですよ。もちろん「アレタ」生徒に出会うこともありますが、それはそれでまた「良し」です。

 大人になった時、「中学校の修学旅行で広島の平和公園に行った。面白いおじさんが、大きな声で案内してくれたなあー」ということを、ちょっとでも思い出してくれたら、それで幸いです。出来ればその時に、自分の夫や妻と、子どもたちと、平和公園に来て思い出して欲しいですね。

 修学旅行とはまったく関係ありませんが、面白い川柳というかそんな言葉を見つけました。どうしても皆さんへ伝えたくて書いておきます。

今夜から ゆっくり寝れる 自己破産

 笑ってしまいましたし、まずもって「ら抜き言葉」が良いし、この開き直りが気に入りました。
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「広島のシムヤンネ」

 たまに韓国の人と会うことが在るのですが、これをいうと絶対に受ける、みんなが僕を見て笑いながら、歓声をあげるというのがあります。

 5月4日も韓国の平和団体の人が広島を訪れ、交流の場が行われました。その場で、「僕は広島のシムヤンネです」と挨拶すると、一斉に「シムヤンネ、シムヤンネ」という歓喜の声が上がりました。

 シムヤンネという人、韓国の有名なコメディアンで、日本でいうとビートタケシのような辛口の社会批評をする人だそうです。いっておきますが僕はビートタケシが決して辛口な社会批評をする人とは思いませんが、まあーそんな感じのコメディアンだそうです。シムヤンネはコメディアンでもあるそうですが、最近は映画を製作するとかで活躍しているそうです。その点はビートタケシにも似ているかも知れませんね。

 5月4日の交流会の時には、自撮棒で何人もの人から写真を撮られました。なかにはサインをして欲しいとまで頼まれ、まさにタレントのような扱いでした。しかしいくら調子乗りの僕でも、サインは恥ずかしくて勘弁してもらいました。韓国から来た人らは、一斉にスマホからシムヤンネを探して、広島側の参加者にも見せていました。広島側の人も「そっくりだ!」と歓声を上げていましたから、僕もハイテンションになっていました。

 いつか本物のシムヤンネに会って、「広島のシムヤンネ」として日韓交流の橋渡し役をしてみたいものです。

 交流の場では、北朝鮮のこと、「従軍慰安婦」問題、韓国内での受験競争のこと、大統領選挙のこと、儒教社会のことなどに話しが弾み、「明日もまた話そう」とまでリクエストされました。

 韓国は日本と最も近い国ですし、仲良くならなければなりませんね。北朝鮮に対しても、アメリカなどの国と調子を合わせて経済制裁とかいった圧力を掛けるだけでなく、近くの国としてもっと個性的な対話関係を持つ努力が大切なことだと思います。

 韓国からの参加者はほとんどが20歳代の若い人でしたが、日本で宣伝されているような「北は悪い国」という思いではなく、「困ったなあー」という感じでした。それが少し救われたという気持ちにもさせてくれました。

 広島の原爆被爆者の数が多いということで、「韓国のヒロシマ」と呼ばれている慶尚南道の陜川(ハプチョン)に、来月にも「原爆被害資料館」が完成する予定だそうです。韓国でも釜山という最も日本に近い場所から、車で約2時間くらいです。「広島のシムヤンネ」して、是非とも訪ねてみたいと思っています。

三つのホショウ

 4月1日に大阪で“「被爆者援護法」と三つのホショウからフクシマを考える”というタイトルで話しをすることを頼まれていて、頭の中を整理しています。

 70~80年代、被爆者援護法の制定を要求する運動のために、何度上京したことでしょうか。「被爆者列車」と銘うって、今は無き夜行列車で行ったこともあります。そうした場で多くの被爆者の人から、たくさんのことを教えられたものです。それが今、僕の大きな財産になっています。

 その中にあるのが「三つのホショウ」というものです。「ホショウ」という言葉には、「補償」「保障」「保証」があります。「補償」のホショウは、原子爆弾が投下されたことにより、亡くなった人、大けがをした人、親を亡くした人、子を亡くした人、家族を亡くした人、財産を無くした人、そういう人たちへのホショウです。

 そして「保障」のホショウは、今生きている被爆者へのホショウです。健康問題に関するものが大半だと思います。

 「保証」のホショウは、二度と原子爆弾の惨禍を起こさせない、放射線被害者を作らないための社会を目指すというものです。

 先頭に立って被爆者運動を進められていて、1994年1月に92歳で亡くなられた哲学者の森滝市郎さんは、「原子爆弾投下の時に失明した片方の目については、何のホショウもされていない。今生きている自分には、健康管理手当などの手当てが払われている。そして今の政治状況では、これから核兵器が使われたり原発によって被害者が生じるかもしれない。これからの保証の問題が心配だ」と話されたことがあります。

 「だから被爆者援護法制定運動は、単に被爆者の金くれ運動ではない。国民全てのため、世界中の人たちのための運動なのだ! だから国民運動として全国の自治体で制定要求決議がされている。三つ目の保証が大事」ということを熱く話しておられました。

 しかし「国家補償の精神」の被爆者援護法は、当時自民党、社会党という自社政権の中にあっても制定されませんでした。

 特に最近、「被爆者の人はいいよねえー。病院に行っても病院代を払わなくて良いし。手当ても貰って」ということを聞くことが多いように思います。国の医療や福祉に対する政策が後退したことにより、その不満のホコ先が行政に向かわずに、被爆者に向かっているのだと思います。

 小学6年生の時、福島県大熊町に住んでいて3・11を経験した若者が、作文コンテストで原発事故に遭遇したことを書いていました。その中で彼は、“福島県内でも、原発事故で被災した人とそうでない人には温度差がある。「あの家は賠償金で潤っている」との陰口を聞き、心が痛んだ”と。ヒロシマ・ナガサキから72年になろうとしているのに、放射能被害の深刻さが伝わっていないなとシミジミと思います。

 ヒバクシャ問題はタブー視されていたのでしょうか。皆さんのご意見を是非とも寄せてください。

高齢者の闘い

 反原発にしても、戦争法に反対する活動にしても、その活動に関わっている人の多くは高齢者が多いと思います。高齢者を何歳からにするかと云うこともありますが、まあー60歳前後から上の人でしょうか。もちろんたまに30歳代というのも見かけますが、そういう人を見ると「珍しい」というように感じます。

 若い人は仕事というゾーンの中で、生活がかかっているのですからなかなか難しいという状況にあるでしょうし、今の社会ではこういう問題に関わっているとすぐにレッテルが貼られてしまうという、周辺状況が在ると思います。これが一番大きな問題かも分かりませんが。

 アメリカ大統領選挙でも、トランプを当選させた勢力の多くは古きよき時代を懐かしむ高齢者世代だと、ある人が話していました。

 先日読み終えた内館牧子さんの「終わった人」の中に、「金時モチ」という言葉がありました。お菓子ではありません、お金と時間を持っているオヤジのことだそうです。愛情などまったく無いのに、若い女性たちから「オネダリ」のターゲットにされるオヤジのことでもあります。

 まあー「金時モチ」のような人もいるでしょうけど、年金は引き下げられる、医療費は上がる、介護保険料は上がる、などなど高齢者が住みにくくなる状況は増していますね。そういう中でも、この国が悪い方向へ向かうことに対し、子どもや孫たちに少しでも良い世界にするためにと、頑張っている僕ら世代の貴重な存在の人たちだと思います。

 高齢者が住みにくくする政策は、今でも社会運動の中心にいる人を、まさに「兵糧攻め」で関わらせなくするというように見えるのは、僕が相当にヒネクレテいるでしょうかね。一方でカジノを解禁し、そっちに金をつぎ込ませてしまおうという政策でしょうか。アベシンなら、こういう発想もするのではないかとさえ思ってしまいます。

 と云っても、高齢者になって活動している人もこの年齢になって関わり始めたという人は、そんなに多くはないと思います。若い頃から社会状況に疑問を持ちながら、いろいろなことを勉強して今になったのではないでしょうか。

 僕も前期高齢者の真っ只中にいて、高齢者ではなく後継者のことを考えるようになりました。しかし、僕世代が考えているある意味ワンパターンの発想ではない、新しい発想の中で活動をする若い世代が必ずや出現することを期待しています。

 ある意味、まだ元気だと思っている高齢者世代の「頑固さ」「かたくなな態度」が若い世代を押さえ付けているのかと思ったりもしています。しかし若い世代の人へも、過去の経過については話しておかねばとも思います。

 上関原発建設問題が公けに明らかになったのは、1982年です。今から34年前のことです。当事者である中国電力社員にしても最初からその経緯を知っているのは、もう退職前の人ではないでしょうか。22歳で入社した人も56歳、特に会社ではずっと同じ部署にして上関を担当しているのは、皆無に近いでしょうから。先日、中国電力に申し入れをした時、上関町長選挙の不正転入事件のことを言ったら、担当者がまったくそのことを知らないみたいでした。

 間違った歴史を、しっかり学んでこそ同じ失敗を犯さないのではないでしょうか。最近そんなことを強く思っています。

ボブ・ディランさんがノーベル文学賞

 本題に入る前に、今朝からこの9月21日に東京で開催された藤田祐幸さんを偲ぶ会で、娘さんが藤田さんに聞いた、「どんな人生だった?」という質問への答えをずっと考えていました。当日貰った資料の中にも、その答えの文章があったのですが、どうしても見つかりません。

 この会に参加していた知人二人にも電話をしましたが、「資料を貰わなかった」とか、電話に出てくれないとかで分かりません。一言の言葉が見つからないだけで、ブログの文章が進みませんでした。

 たぶん藤田さんの言葉は「波乱万丈だったけど、やることはやった、後悔はない」というようなものだったと思います。この言葉を入院中、考えていました。「波乱万丈」というのには人それぞれの受け取り方で、個人差があると思いますが、僕も「波乱万丈」といえばそうではありますが、藤田さんと違って「やることはやった、後悔はない」というようにはなりません。原発問題一つでも、たくさんのやらねばならないことが多く、イライラという感じです。

 そんなイライラの中でも、ボブ・ディランさんがノーベル文学賞を受賞したのは、本当に良かったですね。昨年のスベトラーナ・アレクシエービッチさんの時もとても嬉しかったので、2年連続の喜びです。スベトラーナ・アレクシエービッチさんは「チェルノブイリの祈り」という本を書いたベラルーシの女性作家です。春樹ファンには悪いような気もしますが、ノーベル賞選考の目も賢明だったという感じです

 ボブ・ディランさんの「How many roads must a man walk down」で始まる「風に吹かれて」は、知ったげに英語で唄ったものです。一昨年1月に亡くなったピート・シーガーさんの「花はどこへ行った」も大好きですし、天国のピート・シーガーさんも、ボブ・ディランさんの受賞を喜んでいるでしょうね。

 アメリカに行った時など、平和集会などではこのボブ・ディランさんやピート・シーガーさんの歌はよく唄います。こういう人が今でも、アメリカ内だけでなく世界中で人気があるというのは、まだアメリカのフトコロの深さを思っています。

 新聞には1963年8月28日に、ワシントンで開催された人種差別撤廃を求めるワシントン大行進で、ジョーン・バエズさんとボブ・ディランさんの若き時代写真が載っていましたが、これは保存物です。

 日本ではこんな歌を唄っていると、すぐに干されるでしょうね。何年か前に山口市で開催された反原発集会で高石ともやさんが唄ってくれましたが、こういう歌手がテレビなどで観ることが出来る状況が必要ですね。


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